麻生久
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麻生 久(あそう ひさし、男性、1891年5月24日 - 1940年9月6日)は昭和期の政治家・労働運動家。戦前の無産政党の代表的指導者であり、1930年代以降の社会民主主義勢力の右傾化に、最も影響力のあった人物。戦後代議士を務めた麻生良方は長男。
大分県玖珠郡東飯田村(現・九重町)生まれ。旧制大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)、第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフ等ロシア文学に熱中し、これがロシア革命に関心を寄せる契機となった。また女性関係も派手であったといわれている。
東大卒業後の1917年、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社。翌1918年には東日紙上に「ピーターからレーニンまで」を連載しロシア革命を支持した。また同年には吉野作造らとともに大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を立ち上げ、新渡戸稲造、大山郁夫、小泉信三、与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。1919年友愛会に入り、東大時代の同期生で元検事の棚橋小虎とともに、協調主義的傾向の強かった友愛会を急進的・戦闘的な組織に改革していった。1920年には全日本鉱夫総連合会を設立し、足尾銅山・日立銅山・夕張炭鉱等での争議を指導、度々投獄された。
1925年、日本労働組合総同盟(友愛会の後進)政治部長となり、無産政党運動に参加、翌1926年に結成された労働農民党の中央執行委員となるが、左右の対立により分裂すると、三輪寿壮・三宅正一らとともに同年12月日本労農党を結成する。以後、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党と中間派無産政党の書記長・委員長を務める。
1932年、全国労農大衆党は社会民衆党と合併して社会大衆党となり、麻生は書記長に就任した(委員長は安部磯雄)。この頃から、軍部の「革新派」と連携することで社会主義勢力の拡大を企図するようになり、1934年陸軍省が「国防の本質と其の強化の提唱」なるパンフレットを発行すると、これを「軍部の社会主義的傾向の表現」として高く評価する声明を出した。以後、親軍派でナチズムの信奉者でもあった亀井貫一郎とともに社大党の右傾化を推進してゆく。1936年東京都から衆議院議員総選挙に出馬し当選、1937年再選された。同年日中戦争が勃発すると、局地解決・事変不拡大を条件に政府を支持、軍事予算も承認した。1938年には近衛文麿を党首とする新党結成を画策し、1939年には中野正剛率いる東方会との合併を試みるなど、保守・右翼政治勢力との連携を模索していた。
1940年2月に起きた、斎藤隆夫代議士の反軍演説問題については除名賛成の立場を取り、反対派に回った党首の安部をはじめ、鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎・松本治一郎らを除名処分とし、自らが後任の党首となった。同年、近衛の新体制運動に積極的に協力し、7月には他党に先駆けて社大党を解党させた。第2次近衛内閣においては新体制準備委員会委員となる。
軍部勢力と無産勢力、天皇勢力と庶民勢力の連携によってはじめて、日本の革命は行われると麻生は信じていた。特に昨今、軍部独裁以前の麻生の政治活動に意味を見出そうとする研究もあり、麻生の歴史的位置は未だ確定的なものとなっていない。しかし急速に軍部独裁の高まりを見せる中、軍部、日中戦争、大政翼賛会を支持し、反対派を放逐・圧迫していった麻生の態度は、敗戦後に戦争肯定論者という印象を強く与えることになった。
[編集] 関連文献
「麻生久伝」(麻生久伝記刊行委員会編・刊、1958年)