高石ともや
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高石 ともや(高石 友也、たかいし ともや、1941年12月9日 - )は、フォークシンガー。日本のフォークソングの創世期以来、歌い続けている。また、ランナーとしても活躍。本名は尻石友也。
1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。
使用する楽器は、ギター、フィドル、バンジョー、ハーモニカ、オートハープ、ベース、ドブロ・ギター、マンドリン、トロンボーン、ボーラン(アイリッシュドラム)と多彩。
またランナーとしても活躍し、国内外のマラソンやトライアスロンの大会にも数多く参加している。ホノルルマラソンには、1977年(36歳)の初参加以来、毎年連続出場している。(2005年現在)
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[編集] 活動の記録
[編集] 1960年代後半 関西フォーク・アングラフォーク
1941年12月9日、北海道空知管内の雨竜郡雨竜町に生まれる。北海道滝川高等学校卒業後、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学。学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や釜ヶ崎で土木作業員、屋台のラーメン屋などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳しフォークソングを歌い始める。1966年7月の大阪YMCAキャンプで初めて人前で歌い、1966年9月19日の大阪労音フォーク・ソング愛好会のコンサートが初ステージ。
1966年10月10日、アート・プロモーション主催のコンサート「第2回フォーク・フォーク・フォーク」に飛び入りで参加し、ここで秦政明に見出される。秦は高石を自宅に居候させ、マネジメントとプロモーションを始めた。
1966年11月頃より「高石友也」の名で活動を開始。各地の労働組合や学校のイベント、労音、反戦集会、フォーク・キャンプなどに出演し、社会運動の支援者やシンパを増やしていくかのように、高石とフォークソングを日本各地に広めていった。また、1966年12月20日、シングル「かごの鳥ブルース」でレコードデビュー。1967年4月28日、最初の「高石友也リサイタル」を毎日ホール(大阪)で開催する。
1967年9月、秦は高石事務所を開設。より本格的に高石のマネジメントを行う。また、イベントやコンサートの企画や開催、新たなアーティストの発掘を始めた。この高石事務所には、岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎ら、関西フォーク陣の他、東京で活動していた高田渡、遠藤賢司、ジャックスも所属し、その中心人物であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖、旗手などとも呼ばれるようになる。
1968年3月、中川五郎がボブ・ディランの曲に替え歌をのせた「受験生ブルース」に、高石が新たに曲を付けて発表し、大ヒット。広く名が知られるようになる。
しかし、1969年12月7日 の冬眠コンサート(大阪フェステバルホール) を最後に、一旦、音楽活動を停止する。この背景には、過度なイベントやコンサートに追われ、また、反戦活動・学生運動と共にあったメッセージ・フォークを歌う者としての存在への疲弊感があったいわれる。
そして高石事務所も、1970年1月1日に音楽舎と社名を変更する。
[編集] 1970年代以降 フォークソングの原点へ
高石は、フォークソングの原点を探し始める。1969年12月16日、福井県遠敷郡名田庄村(現在の大飯郡おおい町)に移り住み、年が明けた1月7日、一人アメリカへと渡る。アメリカを旅をする中、自然を基盤とした生活に目覚める。同年5月17日に帰国の後、音楽活動を再開。ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡、あるいは自身の生活を歌い、特に野外でのコンサート活動を中心として全国各地を廻り始める。
1971年1月30日に「バックステップ・カントリーバンド」を結成。同年2月28日に「ザ・ナターシャー・セブン」と改名する。ザ・ナターシャー・セブンとしての活動は1984年頃まで続いた。また、1973年から永六輔らと始めた「宵々山コンサート」は京都の夏の風物詩となった。1977年からはヒューマンズーに参加。
名田庄村には1982年まで住み、その後は京都市に移る。しかしスタイルは変わらず、今もフォークソングを歌い続けている。
[編集] ディスコグラフィ
注意:ザ・ナターシャー・セブン名義の作品は掲載していない。
[編集] シングル
- かごの鳥ブルース / 恋のノンキ節(1966年12月20日、ビクター)
- 想い出の赤いヤッケ / 白い傘(1967年3月、ビクター)
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- 高石がまだデビューする前、アルバイト先のスキー場のロッジの主人から想い出の赤いヤッケを教わった。慶応大学山岳部の菊池平三郎作詞、三沢聖彦作曲。
- 受験生ブルース / 受験生ブルース(ライブ)(1968年3月、ビクター SV-681)
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- B面は第2回高石友也リサイタル(1968年1月12日、大阪サンケイホール)のライブ。「受験生ブルース」は後に坂本ちゃんがカバーした。
- 北の国へ / 主婦のブルース (1968年11月、ビクター SV-758)
- 坊や大きくならないで / もしも平和になったなら (ビクター SV-810)
- ホーチミンのバラード / ベトナムの空(URC)
- かけてゆく君は風(長い道 / 君はランナー)(高石ともや事務所)
- 何とか元気をやっています / 陽気にゆこう(1995年、AM KOBE AM KOBE-001)
- Good Day For You(1999年6月20日、マクランサ)
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- サロマ湖100kmウルトラマラソンのテーマ曲
- もう一歩 / 明日へ(2002年3月、ABCラジオ ABCR-4343)
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- ABCラジオ「おはようパーソナリティ道上洋三です」25周年記念として作られたCD。「もう一歩」は高石の歌唱、「明日へ」は高石が道上洋三に贈り道上が歌っている。
[編集] アルバム
- 想い出の赤いヤッケ 高石友也フォーク・アルバム(1967年、ビクター SJV-279)
- 想い出の赤いヤッケ / 明日は知れない / 白い傘 / 生きのこり / 俺らの空は鉄板だ / かごの鳥ブルース / 一人の手 / 冷たい雨 / 小さな箱 / 死んだ女の子 / 学校で何を習ったの / 死んだ男の残したものは / チューインガム一つ
- 受験生ブルース 高石友也フォーク・アルバム第2集(1968年、ビクター SJV-354)
- 受験生ブルース / あの人の日曜日 / お父帰れや / とび職ぐらし / のんき節 / 時代は変る / 想い出の赤いヤッケ / 一人の手 / 旅立つ人 / あるおっさん云いはった / 拝啓大統領殿 / 橋を作ったのはこの俺だ / 新しい日 / WE SHALL OVER COME
- 第2回 高石友也リサイタル実況(1968年1月12日 大阪 サンケイホール)
- 坊や大きくならないで 高石友也フォーク・アルバム第3集(1969年、ビクター SJV-405)
- 坊や大きくならないで / お捨てメリンダ / 竹田の子守唄 / ハッシュ・リトル・ベビィ / 血まみれの鳩 / 明日なき世界 / ランブリン・ボーイ / 北の国へ / 労務者とは云え / おいで僕のベッドに / ときは流れる / 青年は荒野をめざす / もしも平和になったなら
- 東風(1972年、ポリドール MR5023)
- 張子の虎 / 賛成・反対 / 東風の吹く国 / きちんと物を考えよう / 流れる水 / 青年は午前9時の太陽だ / 梨の実をかじる歌 / 重い荷物と軽い荷物 / 上手なピアニスト / フェニックスは火から生れる / 調査なくして発言権なし / 毛沢東と話してみたい
[編集] 宵々山コンサート関連人物
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
- 1960年代の高石の活動記録が掲載されている
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