部落の起源論争
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部落の起源論争(ぶらくのきげんろんそう)は近世の被差別民と深いつながりを持つ近現代の被差別部落の起源、形成史に関わる学術的、政治的論争を指す。
部落問題は、日本史や日本社会の重要なテーマであるが、近世から近現代にかけての被差別民や、その集住地である被差別部落の起源に関しては未だに定説がなく、論争が続いている。また実証研究による学術的な知見と社会問題解決における政治的な立場でも見解の差が大きい。
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[編集] 近世起源説
この論争において主流派を占め続けている説である。
[編集] 近世政治起源説
近世起源説は大半がこの説を採る。すなわち、部落は近世権力(豊臣氏、徳川氏)が身分の流動性が大きく戦乱の絶えなかった中世を統一した際に、民衆の分裂支配を目的として作ったというものである。近世部落研究の第一人者寺木伸明は、豊臣秀吉の太閤検地の際に検地帳にかわた(後の穢多)身分が記載された時点をもって、部落の成立としている。
[編集] 近世起源説批判
近年、中世に被差別民が集住した河原などの「無縁」の地と、近世において被差別民の居住地と定められた地、すなわち近現代の被差別部落に直接つながる土地とが互いに重なる事例が多く報告され、中世の被差別民と近世の被差別民の歴史的連続性が注目されるようになってきた。かつての近世起源説に見られた、近世権力が無から突然被差別身分を作り出したかのような論説は近年は姿を消しつつある。ただし、歴史教科書においては未だにこの論調が多く、日本人の間に誤解を与える要因となっている。
この説が同和教育において「正しい認識」とされたのは、後述の古代起源説や異人種起源説に基づいて差別を当然のものとする風潮の根絶に対抗できるものとされたこと、社会問題や社会の不正義を遅れた発展段階に起因するとしがちな発展段階史観が戦後の歴史学研究や歴史教育を席捲したこと、豊臣秀吉や徳川家康といった歴史的人物個人の責任とすることで誰も傷つかずに差別現象のみを糾弾できるとされたことが大きかった。しかしその一方で、民衆の間で差別を再生産していく構造の歴史的な形成過程の解明に対しては無力でもあった。
各県の教育委員会の指導する同和教育においては、1990年代半ばになってようやく、近世政治起源説が学術的に否定されつつあることが意識され出したが、当初は教職員の研修などの場において「歴史学的には近世政治起源説は事実ではないと否定されてきているが、同和教育においては近世政治起源説こそが正しい認識であるとの立場であるから、これで同和教育を行うように」という指導がまかり通るなどのちぐはぐな対応であった。ようやく1990年代末になって近世政治起源説で同和教育を行うことの問題を論じたリーフレットなどが県教育委員会によって編纂され、県立高校や市町村教育委員会に配布されるに至っている。
[編集] 中世起源説
中世史学の網野善彦らの非農業民や穢れの処理に携わる民の実証的な研究によって生じたパラダイム転換を踏まえ、1980年代以降、盛んに提唱されるようになった説である。特に網野が1978年に著した『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』以降の研究の影響が大きい。
[編集] 中世政治起源説
上杉聰が提唱する説で、11世紀に社会から排除された河原者に、中世権力が死牛馬処理などの義務を課した時点をもって、部落の成立としている。
[編集] 中世社会起源説
峯岸賢太郎が提唱する説で、部落成立の要因を習俗的差別に求め、中世初頭に一般大衆が穢れ観によって屠者などを自らの社会から排除した時点で部落が成立したとしている。
[編集] 古代起源説
古代の賎民身分である五色の賤に近世以降の被差別民の起源を求める説であるが、現在は学術界からはほぼ姿を消している。ただし、被差別部落大衆の中には民間信仰として強く残っており、古代の賎民の業務には天皇陵の警備など皇族と関係の深いものが多かった事から、自分達こそが天皇に最も近い民であると主張する人々もおり、部落から右翼系の政治家や論客が多く生まれる一因となっている。
[編集] 異人種起源説
江戸時代、鎖国下で日本を清浄な地とし、そこから離れるほど穢れた地になるという思想を持つ国学が流行する中で、穢れた存在である部落民のルーツは朝鮮、中国、アイヌなど日本民族外にあるとする説が生まれた。近代において柳田国男などはこの説を否定している。中にはエタの語源をユダヤに求め、部落民をイスラエルの失われた10支族の末裔とする説も存在したが、空想の域を出ない。