英彦山神宮
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英彦山神宮 | |
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所在地 | 福岡県田川郡添田町英彦山1 |
位置 | -- |
主祭神 | 正哉吾哉勝速日天忍穂耳尊 |
社格等 | 官幣中社・別表神社 |
創建 | -- |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 9月28日 |
主な神事 | -- |
英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社である。旧社格は官幣中社。通称彦山権現。日本有数の修験道の霊場として栄えた。
英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する。
[編集] 歴史
英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては不詳である。
「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧・法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て当山を再興し、「日子山」を「彦山」に改めたとされる。
12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、座主はそれまでの輪番制から世襲制となった。現在の社家・高千穂家はその末裔である。
戦国時代、焼き打ちや寺領廃止により打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
明治の神仏分離により修験道が廃止され、神社となって「英彦山神社」に改称した。明治30年に官幣中社に列した。昭和50年、現在の「英彦山神宮」に改称した。
[編集] 文化財
- 重要文化財
- 奉幣殿 元和2年(1616年)
- 銅鳥居 寛永14年(1637年)
- 英彦山神宮経塚出土品
- 銅経筒 1口 永久元年(1113年)銘
- 銅経筒(残欠共) 5口分(南岳出土)
- 銅経筒 2口(北岳出土)
- 銅如来立像(銅筒蓋共)
- 彦山三所権現御正体 3面
- 忍骨尊像
- 伊邪那岐尊像
- 鏡板(像欠失)
[編集] 外部リンク
- 英彦山神宮(玄松子)