芝浜
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『芝浜』(芝濱、しばはま)は古典落語の演目の一つ。三遊亭圓朝の作とされる。
酒ばかり飲んでいる男が芝浜で大金の財布を拾うが、妻の言葉によってこれを夢と諦めて改心、懸命に働き、後に妻から事の真相を知らされるという筋。 夫婦の愛情を暖かく描き、古典落語の中でも屈指の人情劇として知られる。 戦後は三代目桂三木助が十八番とし、彼の存命中は他の噺家は遠慮したほどであるが、現在では広く演じられる。 七代目立川談志の十八番としても高名。 噺のヤマが大晦日であることから、年の暮れに演じられることが多い。
1903年初演の歌舞伎『芝浜の革財布』(- かわざいふ)は、本作が原作である。
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[編集] 物語のあらすじ
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
魚屋の勝は酒におぼれ、仕事に身が入らぬ日々が続く。 ある朝早く、女房に叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に向かう。
しかし時間が早過ぎたため市場がまだ開いていない。 誰も居ない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然に財布を見つける。 開けると中には目を剥く程の大金。 有頂天の魚屋は自宅に飛び帰り、仲間を呼んで浮かれ気分で大酒を呑む。
翌日、二日酔いで起き出た魚屋に女房、こんなに呑んで酒代をどうするのか、とおかんむり。 魚屋は拾った財布の件を躍起になって訴えるが、女房は、そんなものは知らない、と言う。 焦った魚屋は家中を引っ繰り返して財布を探すが、何処にも無い。
魚屋は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。以来、魚屋は酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出す。
懸命に働いた末、生活も安定し、身代も増え、やがていっぱしの定店を構えることが出来た三年後の大晦日の夜、魚屋は妻に対してその献身をねぎらい、頭を下げる。
ここで、女房は魚屋に例の財布を見せ、告白をはじめる。
あの日、夫から拾った大金を見せられた妻は困惑した。横領すれば当時でも窃盗罪にあたる。江戸時代では10両(後期は7両2分)盗むと死罪だ。長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は夫の大酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言い切る事にした。時が経っても遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されたのであった。
この真相を知った魚屋はしかし、妻の背信を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。
妻は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ魚屋だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」
しかし思い立った魚屋、次には杯を置く。「よそう。また夢になるといけねぇ」
[編集] 成立
三遊亭圓朝の三題噺が原作。三題噺とは、寄席で客から三つのお題を貰い、それらを絡めて、その場で作る即興の落語である。ある日のテーマが、「酔漢」と「財布」と「芝浜」だった。ここから生まれた三題噺がベースとなって、その後本作が成立した。
とされているが、『圓朝全集』に収録されていないことや圓朝以前に類似の物語があることから、この説を疑問とする声もある。 少なくとも19世紀中には「芝浜」として演じられた記録がある。
[編集] 芝浜の描写
『芝浜』を演じた噺家は多いが、「芝浜の三木助」と謳われた三代目桂三木助が1950年代に演じたバージョンは特に高名である。というよりは「ぞろっぺい」の三代目三木助をして名人たらしめたのは芝浜といっても過言ではない。
この演出には、落語評論家として知られ三木助と親しかった作家の安藤鶴夫がブレーンとして携わったと言われている。(「安藤鶴夫作品集」(朝日新聞社)の『落語鑑賞』には三木助の「芝浜」が釈注つきで収録されている)
三木助は「落語とは何か」と問われて、「落語とは絵だ」と答えている。つまり、演者が丁寧に描写する絵(映像)を、聴き手に鮮明に見せる事こそが重要だ、と主張したのである。
三木助の理論に従えば、魚屋が市場にやってきた場面に於いて、夜が明けて朝日に照らされた真白い浜、静かに揺れる穏やかな波、周囲に建物も何も無い美しい芝浜を聴き手に見せる事ができるか否か、が本作の真髄であり醍醐味と言うことになる。『芝浜』と言う題名ながら、実際に芝浜が描かれるのはこの場面だけであり、非常に重要な見せ場と言えよう。
ただ、これには極めて高レベルの実力が噺家にも聴き手にも要求される。
芝浜は東京都港区東部に位置する芝・芝浦周辺が該当する。近代に大規模な埋立事業が行なわれる(ちなみに江戸時代から埋め立てそのものは行われている)まで、海岸線は現在よりも内陸部に存在した。従って「芝浜」は現存しないのである。
[編集] 妻の造形
「実は大金を拾ったのは現実だった。あたしが嘘をついた」と、最後に衝撃の告白をする妻。この妻をどの様な人物として造形するか、これも重要である。
自堕落な夫を見事に更生させる、立派な妻として描かれる場合が殆んどである。それを聴き手は「実に偉い妻だ」「これこそ文句無しに素晴らしい夫婦愛だ」と賞賛する。しかし、この演出法に対しては、「わざわざ更生させる為に嘘をついてやったのだ、と言わんばかりで、その偉ぶり具合が鼻につく」として嫌う意見もある。
これとは正反対に七代目立川談志の型では、告白の時に「騙して申し訳無い」と心から謝罪して涙を流す、偉ぶらない妻として造形する。反骨家の談志らしいアンチテーゼと言える。
[編集] 夢
人類は夢を見ることで、想像力を掻きたてられ、時には妄想と非難されながらも夢を追い続け、実現を試みてきた。また手近なところでは夢の実現のために宝くじやギャンブルで「夢を買う」行動をとることがある。予期せぬ金を手にしたとき何に使うか、金額の多寡により現実的な使途からはじまり、 生活費の足しにする、頭金にする、焦げついた借金を返済する、海外旅行に行く、働かずに余生を過ごす、出来なかったことを試みる、新たに人生をやり直す等々を考え、使途や想像が現実とかけ離れていればいるほど「夢」は広がり、心地よい。しかし、いつか目覚めてしまうのが「夢」である。
主人公の一日の楽しみは、仲間と酒を呑み、あくせく働かねばならない現実から開放されて心地よい気分に浸ること。思いがけず拾った大金は地道に努力を重ねて得た金と異なり『悪銭身につかず』の喩えの通り、泡銭(あぶくぜに)と化すことが多い。聞き手はごく平凡な主人公が思いがけず大金を手にした行動を馬鹿馬鹿しいと感じながらも頭の片隅では新しい何かを探し求める日常世界と照らし合わせ、他人事と思えぬ主人公と自らを重ねる。
自分が今生きているこの世界は、果たして本当に現実なのか、それとも夢か幻か。あの出来事は現実に起きた事だと確信しているが、明確な根拠や境界はどこにあるのか。
このような世界観を扱ったメディアとして、映像世界ではウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』シリーズを初めとして、小説世界では古くは芥川龍之介の『河童』、鈴木光司の『リング』シリーズ、もう一人の自分がどこかにいる並行世界を扱うSF小説の数々のように古今東西を見渡すと虚構と現実の境界を扱うテーマは数多い。また時代劇などでも芝浜から引用した話が使われることが多い。
芝浜は落語がもつ虚構世界の中で想像と現実の境界が実は曖昧であることを訴え、いつかは覚める夢のはかなさと切なさとともに人々に淡い希望を抱かせ、聞き手の共感を呼ぶ。
[編集] ドラマ化作品
- 『タイガー&ドラゴン』 - 第1話。2005年。
[編集] 映画化作品
- 『芝浜の革財布』 - 木下吉之助主演。吉沢商店制作。サイレント映画。白黒。1910年。
- 『芝浜革財布』 - 日活制作。サイレント。白黒。1921年。
- 『夢の芝浜』 - 上田五万楽主演。水野正平監督。妹尾嫡利久脚色。マキノプロダクション制作。サイレント。白黒。1926年。
- 『芝浜の革財布』 - 谷幹一主演。久見田喬二監督。原健一郎脚本。日活制作。サイレント。白黒。1933年。
- 『芝浜の革財布』 - 田村邦男主演。根岸東一郎、マキノ正博監督。マキノ正博プロデュース。桐島雄吉原作、脚本。マキノトーキー製作所制作。白黒。1936年。
[編集] 楽曲
- 『芝浜ゆらゆら』 - 唄・作詞/林家たい平、作詞・作曲・編曲/マシコタツロウ