稲葉道通
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稲葉 道通(いなば みちとお、元亀元年(1570年) - 慶長12年12月12日(1608年1月29日))は、戦国時代の武将。江戸時代前期の伊勢岩手藩の第2代藩主。伊勢田丸藩の初代藩主。父は稲葉重通(道通は五男)。母は吉田浄忠の娘。稲葉一鉄の孫に当たる。名は重一、通茂。通称は勘右衛門。官位は従五位下。左近蔵人。
1593年、長兄の牧村利貞(牧村政倫の養子)が死去した後、その実子である牧村牛之助が幼少だったため、その後を継いで岩手藩主となり、2万300石を領する。1594年、伏見城工事で功績を挙げたことから、豊臣秀吉より5700石の加増と、豊臣姓を下賜された。このとき、叙任もされている。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、分部光嘉や富田信高らと共に九鬼嘉隆(西軍)と戦った。道通は嘉隆と仲が悪く、木材の海上運送税などについて争っていたのである。戦後、その功績により2万石を加増されて、伊勢田丸に移されて、その藩主となり4万5700石を領した。しかし、長兄・利貞の遺児である牛之助が15歳に成長しても家督を譲ろうとせず、実子の稲葉紀通に譲ろうとしたため、牛之助が不満を抱く。このため、道通は刺客を送って牛之助を殺害した。
しかしその事件から間もない1607年12月12日、伏見で死去し、後を子の紀通が継いだ。墓所:京都妙心寺の雑華院。享年38。
暗殺事件から半年足らずで死去したため、その死は牛之助の呪いとも言われている。なお、稲葉氏は紀通の代に謀反の疑いをかけられて断絶した。