富田信高
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富田 信高(とみた のぶたか、? - 1633年4月7日(寛永10年2月29日))は、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将(大名)。富田一白の子、妻は宇喜多忠家の娘。はじめ豊臣秀吉に仕えて伊勢国安濃津に5万石を領有した。
[編集] 経歴
[編集] 安濃津城攻防
信高は、300名の家臣を率いて家康の上杉討伐に従軍したが、他の諸将とともに関ヶ原の戦いでは徳川に与力することを決意し、下野小山から家臣を率いて急ぎ安濃津に戻った。西軍が伊賀方面から東に進出しつつあることが既に報じられており、しかも安濃津は交通の要衝で必ず西軍の攻撃にさらされることが予測されたのである。
同じく東軍に加担した盟友分部光嘉(伊勢上野城主)は、安濃津の信高に合流してともに西軍にあたることになったが、加えて古田重勝(松坂城主)にも援軍を要請した。更に信高は、関東に安濃津籠城の件を伝え、急ぎ家康に西上してもらうよう要請しようしたが、西軍に与した九鬼嘉隆が海上を封鎖したため、徳川との連絡は絶たれたままを余儀なくされた。
富田信高の兵、分部光嘉の兵、更に古田重勝の援軍500を加えても安濃津城に籠城する東軍はわずか1700という哀しさであった。一方、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らを首脳とする西軍は総勢3万にのぼった。
8月24日、安濃津城攻防戦が開始された。分部光嘉は毛利家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、信高も自ら槍を振るって西軍にあたったが、多勢に無勢、群がる敵兵に囲まれたところへ、一人の若武者が救援に駆けつけ、危機一髪命を取り留めた。「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く・・・」(「逸史」より)とあるこの武者は、なんと信高の妻であった。信高、光嘉らはよく闘ったが、これ以上戦いを継続するのは無謀と思われた。木食上人が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、信高は剃髪して高野山にのぼった。
[編集] 改易
戦後、徳川家康にその功績を認められ、旧領の安堵のほか、伊勢国内に2万石を加増され、更に1608年には伊予国宇和島藩12万石に加増移封された。しかし1613年、義弟坂崎直盛との争いが原因で改易された。その後、富田氏は旗本として存続した。