稲葉重通
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稲葉 重通(いなば しげみち)は、安土桃山時代の武将・大名。
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 慶長3年10月3日(1598年11月1日) | |||
別名 | 勘右衛門(通称)、重執(別名) | |||
墓所 | 岐阜県岐阜市長良の崇福寺 | |||
官位 | 従五位下、兵庫頭 | |||
氏族 | 稲葉氏 | |||
父母 | 父:稲葉良通(一鉄)、母:加納氏 | |||
兄弟 | 弟:稲葉貞通、稲葉直政、稲葉方通 | |||
妻 | 正室:吉田浄忠の娘 | |||
子 | 牧村利貞、稲葉通重、稲葉道通 |
稲葉良通(一鉄)の庶長子として生まれる。はじめ織田信長に仕えたが、信長が本能寺の変で死去した後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣となり、馬廻を務めた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参加し、その功績で河内国内に所領を与えられた。天正13年(1585年)7月、従五位下、兵庫頭に叙任される。
天正15年(1587年)、九州征伐に従軍する。天正16年(1588年)、父が死去するが、庶子のため、家督は嫡子(異母弟)の貞通が継ぐこととなり、重通には美濃清水に1万2000石を与えられて大名となる。
天正18年(1590年)、小田原征伐にも参加する。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、肥前名護屋城に在陣した。秀吉の晩年には御伽衆となる。慶長3年(1598年)10月3日に死去。後を子の稲葉通重が継いだ。