神楽坂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区にある早稲田通りにおける大久保通り交点から外堀通り交点までの坂、及びその周辺を示す地名。なお大久保通りとの交差点が「坂上」、外堀通りとの交差点が「坂下」[1]となる。またこの坂は、地下鉄東西線や都営大江戸線(牛込神楽坂駅)の駅名にもなっている。
「神楽坂」の名前の由来について、「江戸名所図会 巻之四」(天保七年)によれば、この坂の右側に「高田穴八幡」の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる。 また、「改撰江戸志」(原本は残っておらず成立年代は不明だが文政以前にすでに存在が確認されている)には、「津久戸明神」が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると、容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されている。
江戸時代には坂ではなく、殆どが階段であった。表通りでは犬を散歩させる人の姿が見られ、また坂を自転車で駆け上がる人もいる。裏通りに入ると猫が多く、閑静な雰囲気である。都心においていまだ生活感が残る貴重な場所である。
目次 |
[編集] 特徴
休日やランチタイムに一部区間が歩行者天国となり、界隈の人でにぎわう。また、神楽坂は、全国的にも稀な逆転式一方通行となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する。午前中は「坂上→坂下」(早稲田側から飯田橋側へ)であるが、午後は「坂上←坂下」となり、通行する際は注意が必要である。逆転式一方通行となった背景に、その昔田中角栄が目白台の自宅から永田町に出勤し(午前)帰宅する際(午後)に便を図ったからともいわれるが、実際のところは明らかでない。
[編集] 周辺
神楽坂付近は、大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋駅を背に坂の右手には、花街特有の路地が残され、日本でもここにしかないといわれている。また関東大震災以後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が盛んになった。山の手銀座と言われた時期はこの時で、林芙美子や、矢田津世子の小説にも登場する。坂沿いには商店街が立ち並び、瀬戸物屋・和菓子屋など和を思わせるお店が中心であったが、2003年以後特にチェーン店やコンビニの進出が目立ち、それとともに、夏目漱石の通った田原屋などの老舗が急速に減少しつつある。
表通りから一歩入ると静かな路地があり、住宅街のなかにレストランや料亭などが多く見られる。かつては江戸時代に蜀山人、明治期に尾崎紅葉、泉鏡花などが住み、尾崎紅葉旧居跡は新宿区指定史跡、泉鏡花の旧居跡は新宿区登録史跡になっている。また、坂の周辺には毘沙門天をはじめ、若宮八幡や赤城神社など多くの寺社が散在する。
周辺の学校には、東京理科大学、法政大学があり、また、東京日仏学院をはじめとし、フランス関係機関の多さから、フランス人をはじめ海外からの人が多く見うけられる。
坂下(飯田橋側)にあったパラパラの殿堂といわれたディスコ「ツインスター」は現在では閉店し、跡地は結婚式場兼フランス料理店に衣替えした。5丁目から矢来町にかけては、著名人なども住む高級住宅地と、昔ながらの人たちが住む住宅地が混在している。東京メトロ神楽坂駅を過ぎ、矢来町へ進むと矢来能楽堂がある。休日には歩行者天国になり地元の商店街は多くの人でにぎわい、生活感のあるあたたかい風景がひろがる。
[編集] 町名の変遷
1871年~ | 1872年~ | 1879年~ | 1911年~ | 1951年~(現行) |
---|---|---|---|---|
牛込神楽町一丁目 | → | → | 神楽町一丁目 | 神楽坂一丁目 |
牛込神楽町二丁目 | → | → | 神楽町二丁目 | 神楽坂二丁目 |
牛込神楽町三丁目 | → | → | 神楽町三丁目 | 神楽坂三丁目 |
宮比町(一部) | 上宮比町 | 牛込上宮比町 | 上宮比町 | 神楽坂四丁目 |
牛込肴町・寺地・武家地 | 牛込肴町 | → | 肴町 | 神楽坂五丁目 |
牛込通寺町 | → | → | 通寺町 | 神楽坂六丁目 |
[編集] 交通
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ↑ 坂下交差点はかつて牛込見附という名称の交差点