石山寺
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石山寺 | |
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多宝塔(国宝) |
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所在地 | 滋賀県大津市石山寺 |
山号 | 石光山 |
宗派 | 真言宗 |
本尊 | 如意輪観世音菩薩 |
創建年 | 天平19年(747年) |
開基 | 良弁、聖武天皇(勅願) |
別称 | |
文化財 | 本堂・多宝塔・釈摩訶衍論他9点(国宝) 東大門・鐘楼他(国重文) |
石山寺 (いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)である。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
目次 |
[編集] 起源と歴史
石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は天然記念物の珪灰石(けいかいせき、硅灰石とも書く)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。
『石山寺縁起』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(ろうべん、東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが当寺の初めとされる。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山(きんぷせん)に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。その2年後、実際に陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は無事に効果を現わしたわけだが、如意輪観音像がどうしたわけか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書(もんじょ)によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮(ほらのみや)が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神(しゅこんごうしん)像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。
以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、聖宝(しょうぼう)、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」「管長」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供(しゅんにゅうないく、890-953)である。淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、一括して国宝に指定されている。
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。『枕草子』には「寺は石山」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)も長保3年(1001年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
[編集] 伽藍
- 本堂(国宝)-正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県下最古の建築である。内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立されたものである。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造(かけづくり)となっている。懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。
- 多宝塔(国宝)-建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
- 東大門(重文)-参道入口の門。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立だが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。
- 鐘楼(重文)-鎌倉時代。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 本堂
- 多宝塔
- 漢書 高帝紀下、列伝第四残巻
- 史記 巻第九十六、九十七残巻
- 玉篇(ぎょくへん)巻第廿七
- 春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)巻第廿六残巻
- 春秋経伝集解 巻第廿九残巻
- 釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)
- 淳祐内供筆聖教(しゅんにゅうないくひつしょうぎょう)73巻1帖(1961年の国宝指定時には「60巻1帖」だったが、寺内で新たに発見された13巻が2002年に追加指定されている)
- 延暦交替式
- 越中国官倉納穀交替記残巻
- 周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻
[編集] 重要文化財
- 木造如意輪観音半跏像-当寺の本尊。本堂奥の巨大な厨子に納められている。秘仏で、33年に1度の開扉と、天皇即位時の開扉以外は公開されることがない。20世紀後半以降では、1961年に開扉、1991年4月10日から4月30日まで天皇即位吉例開扉、2002年8月1日から12月16日まで開基1,250年記念で開扉が行われている。像高約3メートル。如意輪観音像は6臂像(6本の手をもつ)が多いが、本像は2臂像で、岩盤の上に直接坐している。本堂の再建と同時期の平安時代後期の作と推定される。像内からは奈良時代の金銅仏4体、水晶製五輪塔などが発見され、これらは2003年、本像の附属として重文に追加指定されている。
- 塑造金剛蔵王立像心木-塑像(表面を粘土で造形した像)の内部にあった支えの心木である。この心木は、本尊の右脇侍である金剛蔵王(蔵王権現)像の内部から発見されたもの。金剛蔵王像自体は江戸時代の作だが、心木は奈良時代創建時のもので、学術的にきわめて貴重なものである。
以下は石山寺所有の重要文化財の一覧である。
(建造物)
- 東大門
- 鐘楼
- 宝篋印塔
(絵画)
- 絹本著色不動明王二童子像
- 絹本著色仏涅槃図
- 紙本著色源氏物語末摘花巻(伝土佐光起筆)
- 紙本著色石山寺縁起(巻第六・七絵 谷文晁補写)7巻
- 石山寺多宝塔柱絵
(彫刻)
- 木造如意輪観音半跏像(本尊)・像内納入品(金銅仏4躯、水晶舎利塔、厨子)
- 木造如意輪観音半跏像
- 木造大日如来坐像(多宝塔安置)快慶作
- 木造大日如来坐像(伝元多宝塔本尊)
- 金銅観世音菩薩立像(注)
- 銅造釈迦如来坐像
- 木造持国天立像・増長天立像・毘沙門天立像
- 木造維摩居士坐像
- 木造毘沙門天立像
- 木造不動明王坐像
- 塑造淳祐内供坐像(御影堂安置)
- 塑造金剛蔵王立像心木 附塑造断片、光背、納入品
(注)この観音像は1948年盗難に遭い、その後、首以下の胴体部分のみが発見された。切断された頭部は行方不明である。
(工芸品)
- 梵鐘
(書跡典籍、古文書)
- 叡山大師伝
- 倶舎論記22巻・倶舎論疏30巻・倶舎論頌疏5巻
- 説一切有部倶舎論 仙釈筆
- 十誦律 巻第五十二
- 大般若経音義 中巻
- 智証大師伝
- 不空三蔵表制集 巻第三
- 仏説浄業障経
- 法花玄賛義決
- 法華義疏 7巻
- 石山寺一切経 4,644帖
- 石山寺校倉聖教 1,926点
- 本朝文粋零本
- 建久年中検田帳
- 行歴抄 円珍記
(考古資料)
- 袈裟襷文銅鐸
[編集] 拝観情報
- アクセス
- 拝観料
500円
- 開門時間
08:00~16:30
[編集] 画像ギャラリー
紫式部像 |
天照皇大神を拝し弘文天皇を祭る若宮 |
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紫式部供養塔と芭蕉句碑 |
那須与一地蔵 |
島崎藤村ゆかりの密蔵院 |
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