皇朝十二銭
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皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称である。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。
皇朝十二銭は、以下の12種類である。
- 和同開珎 708年(和銅元年)
- 万年通宝 760年(天平宝字4年)
- 神功開宝 765年(天平神護元年)
- 隆平永宝 796年(延暦15年)
- 富寿神宝 818年(弘仁9年)
- 承和昌宝 835年(承和2年)
- 長年大宝 848年(嘉祥元年)
- 饒益神宝 859年(貞観元年)
- 貞観永宝 870年(貞観12年)
- 寛平大宝 890年(寛平2年)
- 延喜通宝 907年(延喜7年)
- 乾元大宝 958年(天徳2年)
いずれも形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。貨幣価値としては、律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。
皇朝十二銭が発行された目的としては、唐の開元通宝を手本とし、貨幣制度を整えるため、また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本来の価値と貨幣価値との差額で賄うためということが挙げられる。
和同開珎は、日本で実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のものである。これより古い貨幣に富本銭があるが、これは実際に流通したかどうかはっきりしない。和同開珎発行から3年後の711年には、貨幣を多く蓄えたものに位階を与えるとする蓄銭叙位令が発布された。蓄銭奨励と流通促進とは矛盾しているが、銭貨の流通を促進するために発令されたと考えられている。しかし、実際に位階を与えた記録は、同年11月の1例しか残っていない。当時の日本は、米や布などの物品貨幣が一般的であり社会経済水準が貨幣を必ずしも必要としていなかったため、畿内とその周辺国以外には貨幣はあまり普及しなかったとも考えられる。また、仮に需要があったとしてもそもそも銅の生産量が絶対的に少なかった当時の日本では実物貨幣に代わるだけの銅銭の製造は始めから困難であった(銅鉱の発見を機に元号を「和銅」と改めてしまう程当時銅は貴重であった事、また後述のように時代が下るにつれて急速に品質が悪化している)。ただし、発見地は北海道から熊本県まで全国各地に及んでいる。
和同開珎が発行されてから52年後、万年通宝への改鋳が行われた。この時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。この定めはその後の改鋳にも踏襲された。やがて原材料の銅が不足するようになり、改鋳を重ねるごとに、大きさが縮小し、重量も減少、素材も劣悪化していった。和同開珎が発行されて間もない頃には、銭1文で米2kgが買えたが、9世紀中頃には、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまった。延喜通宝や最後の乾元大宝は、銅銭ではなく鉛銭であると言われるほど鉛の含有量が高いものが多く存在する。
こうして、民間での、政府が発行する銅銭への信頼は失墜してしまい、使用されなくなった。乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなった。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう。ただし畿内などでは300年かけて形成された金属貨幣そのもののに対する需要が完全に無くなった訳ではなく、沽価法などの公定価格の決定には貨幣換算によるものが用いられてきた。やがて経済が発達すると、中国から輸入した宋銭、元銭、明銭などが用いられるようになった。
皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られなかった。銅銭の公鋳の再開は、皇朝十二銭の600年以上後の1608年(慶長13年)に鋳造された慶長通宝あるいは1627年(寛永4年)の寛永通宝鋳造まで待つこととなる。
和同開珎(わどうかいちん)以前に別の銭貨が造られた可能性がある。一つは、無文銀銭(むもんぎんせん)であり、他にもう一つ、富本銭(ふほんせん)である。
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