白瀬矗
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白瀬 矗(しらせ のぶ、 文久元年6月13日(1861年7月20日)-昭和21年(1946年)9月4日)は、陸軍中尉であり、南極探検家である。
秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。11歳の頃に寺子屋の教師、佐々木節斎より北極の話を聞き、探検家を志す。この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを課した。それは酒、煙草、茶、湯を絶ち、そして火にあたらないというものであった。白瀬は生涯これを守り続けたとされる。明治12年(1879年)7月に僧侶となるため上京するが、二ヶ月後に軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校。同時に幼名の知教という名を矗に改名した。
明治14年に教導団を卒業、伍長として仙台に赴任。明治20年には同地の海産問屋の娘、やすと結婚した。明治26年に予備役となり、千島探検隊に加わる。隊長は幸田露伴の兄、郡司成忠大尉。同年8月31日に占守島に到着。明治29年まで同島にとどまる。
明治42年にアメリカの探検家ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、北極探検を断念、目標を南極点到達とする。
探検の費用補助を帝国議会に建議、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義捐金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。明治43年7月5日に神田で南極探検発表演説会を開催、当日南極探検後援会が組織され、会長には大隈重信が就任した。南極探検に使用した船は、元は漁船であって、郡司大尉が千島遠征に使用した積載量わずかに200トンという帆船を買い取り改造したもので、「開南丸」と命名された。
同年11月28日、開南丸は芝浦埠頭を出港した。明治44年の2月8日ニュージーランドのウェリントン港に入港。2月11日に南極に向け同港を出港したが、氷に阻まれ立往生の危険が増したため、オーストラリアのシドニーに引き返し5月1日に入港した。
シドニーで半年間の滞在(この間野宿で過ごし、住民の不安を招いたが、後解消されている)後、再び南極を目指し11月19日出港。明治45年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名した。同地は上陸、探検に不向きであったためホエール湾に移動。1月20日に極地に向け出発した。探検隊の前進は困難を極め、28日に極点到達を断念、南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、同地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して、隊員一同「万歳万歳万々歳」と唱和した。
いざ大陸を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった。このため、参加していた樺太出身のアイヌ人隊員2名は、犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後、民族裁判にかけられ有罪を宣告された。ウェリントンに戻ると隊に内紛が勃発し、白瀬と彼に同調するもの数人は、開南丸ではなく汽船で日本に帰ってきた。他の者は6月20日、開南丸で帰国した。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、数万円の借金を背負うことになる。隊員の給料すら支払えなかった。家財を売却して転居につぐ転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘とともに、日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、二十年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。
昭和21年、愛知県の、二女が間借りしていた屋敷の一室で死去。死因は「栄養失調による餓死」。享年85。愛知県幡豆郡吉良町に「大和雪原開拓者之墓」の墓碑がある。
その功績をたたえ、南極観測船「しらせ」が彼にちなんで命名された。(海上自衛隊は人名を艦名にしないため、公式には「白瀬氷河」にちなんで命名したとしている。しかし、艦名は一般公募されたものであり、応募者の認識は人名からによるものであろう。)また、南極ロス海棚氷の東岸は白瀬海岸と命名された。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』新潮社 ISBN 4-10-148803-7