千葉常胤
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千葉 常胤(ちば つねたね、元永元年5月24日(1118年6月14日) - 建仁元年3月24日(1201年4月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将である。通称(官途)は千葉介(ちばのすけ)。父は平常重。母は常陸政幹娘。上総広常とは又従兄弟。平安末期における下総国の有力在庁官人であった。
1156年(保延元年)父より下総相馬御厨を譲与されるが、その支配権を藤原親通、源義朝、平常澄と争う。久安二年相馬郡司に補任し、直後に相馬郡を伊勢神宮に寄進する。義朝の郎党として同年の保元の乱、59年の平治の乱に出陣する。乱後に御厨の支配を佐竹義宗と争う。 この頃、平治の乱で敗れた源義朝の大叔父にあたる陸奥七郎義隆の生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の初名、毛利三郎、即ち若槻頼隆である。
1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると加勢し、一族及び源氏の子として育ててきた頼隆を伴って参陣。頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けると、頼隆を頼朝に対面させて源氏の孤児を育ててきたことを深く謝されるという。源氏軍の与力として活躍。佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。1184年(元暦元年)には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加、その後豊後国(大分県)に渡り軍功を上げた。文治3年(1187年)洛中警護のため上洛。1190年(文治5年)の奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍し奥州各地に所領を得る。
子に跡を継いで千葉介氏惣領となった千葉胤正、相馬師常(相馬氏祖)、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、(大須賀氏、国分氏は後の千葉氏の有力家臣団となる)東胤頼(東氏祖)がある。彼ら6兄弟は「吾妻鏡」に源頼家誕生の際に揃いの水干を纏って馬、鎧、弓、剣を献上するなど存在が知られているが、このほかに園城寺の僧となっていた日胤がいたとされる。日胤は以仁王の乱に加勢し平家に討たれた。常胤が頼朝に加勢したのは日胤の仇をとるのが目的であったとする見方もある。
1201年(建仁元)に死去、享年84。法名は浄春院殿貞見、涼山円浄院。