湯原昌幸
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湯原昌幸(ゆはら まさゆき、本名・桜井昌幸 1947年3月5日 - )は、茨城県牛久市出身の歌手、俳優、レポーター、パネラーなどをこなすマルチタレント。日本大学鶴ヶ丘高等学校卒、日本大学芸術学部放送学科中退。血液型B型。
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[編集] 略歴
- 1964年、「ホイホイ・ミュージックスクール」(日本テレビ)への出演がきっかけで、バンド・「スウィング・ウエスト」に入り、ボーカルとして歌の腕を磨き、MCも担当する。
- 1971年、ソロデビュー曲である「雨のバラード」が120万枚を超す大ヒット。一躍、歌手としての人気が出る。しかし、その後は本業としていた歌手としての人気が低迷。数々の曲を発表するが、なかなか売れない時期が続く。
- その後は、俳優として数々の映画やテレビドラマに出演する一方、「うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)などで司会者としても活躍。また「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)のパネラーやレポーター、「わくわく動物ランド」(TBS)のパネラーとしても活躍し、どんな仕事にも対応できる器用なマルチタレントとして重宝される。
- 1983年、タレントで女優の荒木由美子と結婚。36歳にして23歳の美人女優と結婚したことで、世間から羨ましがられ、時には「この犯罪者!(笑)」(本人談)などと周囲におちょくられるも、当時としてはめずらしい13歳の年齢差の結婚により、世間からの注目がさらに増し、独身の中年男性の星のような存在になる。
- 2003年、本業である歌手として「冬桜」を発表。歌詞の内容が団塊の世代に受け、有線放送から火がつき、CDの出荷数が徐々に増していき、数年かけてCD出荷総数が10万枚を超すロングセラーとなり、現在でも有線放送では欠かせない曲となっている。
[編集] 音楽作品
[編集] シングル
- 見知らぬ世界/二人で歩こう
- 雨のバラード/今にわかるわ
- 愛があれば/ある雨の日の想い出
- 愛の影/霧の街角
- 裏窓/あなたに捧げる詩
- 君はいない/二人の教会
- 求婚(プロポーズ)/ある夜の出来事
- 北の盛り場/女の部屋
- 街はずれの酒場で/涙の最終便
- エアポート/非恋ホテル
- 昨日の女/私の意地
- がんばれ長嶋ジャイアンツ/男・長嶋ジャイアンツ(1975年、長嶋茂雄現役引退後の監督初采配の時に湯原が歌った応援ソングであるが、今の巨人ファンではなかなか知らない人が殆どである。しかし長嶋本人も湯原に感謝をしているほどの名曲である。特に途中の歌詞の「君の後に100万の 巨人の星が燃えている」という所がしびれさす。)
- 旅占い/本気にならないで
- 横浜こぬか雨/決意
- あなたセ・ラ・ヴィ/ステップ・バイ・ステップ
- 黒い花びら/酒場の女
- 笑ってくれるな/鯉太郎華の旅
- 時間(とき)を止めて/主役
- 嘘でもいいの/あなたに薔薇よりくちびるを
- 人生半分/ラーメンどんぶり流れ唄
- 夢なかば/雨のバラード
- 冬桜/ナツメロBOY'S
- 都忘れ
[編集] アルバム
- 雨のバラード
- 輝く愛の世界
- 街はずれの酒場で/北の盛り場
- 湯原昌幸/エアポート
- ゴールデンメモリアル・アルバム/ザ・コントラスト
- スーパーベスト/人生半分
[編集] 主な出演作品
[編集] テレビ
- テレビ東京の旅番組(土曜スペシャルなど)
- 田舎に泊まろう!
- 千葉テレビカラオケ大賞21
- 金曜10時!うわさのチャンネル!!
- 社長かヒラか!ハイ&ロー
- リビング・イレブン
- せんみつ・湯原のドット30
- 演歌百選
[編集] ラジオ
*ミュージックギフト *湯原昌幸のおはよう有楽町 *湯原昌幸・歌そして人生 *サンデージョッキー
[編集] ドラマ
*ギョーカイ君が行く!
- 怒れ!求馬
- その時妻は・2
- エスパー魔美
- さかなちゃん
- 水戸黄門スペシャル
- 大江戸を駆ける など他多数
[編集] バラエティ
- なるほど!ザ・ワールド
- わくわく動物ランド
- せんみつ・湯原のドット30
- 田舎に泊まろう!
- 欽ドン など他多数
[編集] 映画
[編集] CM
- 花王 ・トイレ・クイックル (夫婦で共演)
- 明星食品 ・うまかめん
- 沖電気 ・かわら版
- サッポロ一番 ・カップスター
- カルビー ・ポテトチップス
- シャープ ・ハイクッカー
- コクヨ ・ひっつき虫 など
[編集] 舞台
- 「ゆめ花火」 (座長公演) 他多数
[編集] 人物
- とにかく人に優しい性格である。特に13歳年下の夫人を「由美ちゃん」と呼び、娘のように可愛がっている。
- 誰にでも好かれる性格で、芸能界でも悪評がたったことがない。
- 涙もろい。「第37回・日本有線大賞・有線音楽優秀賞」を受賞した際、夫人が見守る中、感極まって涙声で歌いきった。
[編集] 趣味
- 作詞、作曲、ゴルフ、釣り、スキー など
[編集] 結婚後の私生活
湯原は、母・吉の(よしの)と母子で生活していたため、由美子夫人は結婚と同時に芸能界から引退し専業主婦になり、義母と同居することになる。結婚して2週間後、母・吉のが糖尿病からくる足にできた血栓のため入院。退院後は、由美子夫人による食事療法が始まり、5年後の1988年、幼稚園児になっていた長男が、吉のの奇行を母親である由美子夫人に告げ、湯原の耳にも入る。病院での検査の結果、母・吉のは認知症であることが判明。ここから湯原夫妻のすさまじい介護生活が始まる。吉のの介護は主に由美子夫人が担当するも、実母の症状が日に日に悪くなっていく毎日であるため、湯原も仕事場では笑顔であるが心労が隠し切れない日々が続く。帰宅すれば「生き地獄」・「壮絶」という言葉しか当てはまらないほど、吉のの認知症は悪化していた。あまりの症状の悪化で、精神的に滅入っていた湯原が実母である吉のの首に手をかけるところまでいくが、由美子夫人の悲痛な叫びによって最悪の事態を免れる。(夫人談) 自宅での介護を諦めて、由美子夫人が吉のを連れて紹介された介護施設を訪れるが、そこは精神科の施設で、窓に鉄格子が取り付けられている施設だったため、さすがの由美子夫人も「あまりに可哀想・・・」と、吉のを連れて自宅へ戻る。その後、吉のは病院に入院することになるが、転院のたびに病状は悪化。認知症との壮絶な闘いは14年間続くも、その間、湯原は由美子夫人に対し、常に「由美ちゃん、ありがとう」「悪いね」といった感謝の言葉を欠かさなかった。そして2003年1月、母・吉のは急性白血病で他界。吉のが意識をなくす3日前には認知症であるとは思えないほど、吉のは由美子夫人に感謝の言葉をかけ、長男にも「昌幸にそっくり」などと、まもなく訪れる最期を知らせるかのように、湯原と由美子夫人、長男の3人にやさしい言葉を残した。吉のが他界したことで、結婚して2週間後から始まった湯原夫妻の壮絶な20年間の介護生活は幕を閉じる。由美子夫人は吉のの他界で生きる気力を一時失うが、2004年、吉のの20年間に渡る壮絶な介護生活を執筆した「覚悟の介護」の発売を機に、20年ぶりに芸能界へ復帰。湯原も「冬桜」のヒットで各方面からの出演依頼があり、結婚20年目にして由美子夫人と夫婦揃って初めての共演を果たす。
[編集] 近況
タレントしては首都圏限定だが、千葉テレビの老舗カラオケ番組「カラオケ大賞21」(毎週月曜午後8時~9時)で軽妙な司会ぶりを見ることができる。このほかテレビ東京やNHKラジオでの出演が目立つ。特に「田舎に泊まろう!」に初出演した際、当時の民泊失敗記録を樹立。それがきっかけで由美子夫人も同番組に出演することになるも、これまた女性としての民泊失敗記録を樹立。そのことが逆に番組スタッフや視聴者に受け、夫婦揃って同番組の準レギュラー的存在となる。同番組の2時間スペシャルなどには、湯原もしくは由美子夫人のどちらか、または夫婦揃って出演することが多い。また、芸能界のおしどり夫婦として、旅番組やテレビショッピングなどに多数出演している。由美子夫人の著書が話題になり、由美子夫人が介護体験を語る福祉番組に出演する際、ゲスト出演することもある。
本業の歌手としても、2006年2月、約3年ぶりの新曲「都忘れ」をリリースした。