渡辺二郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺 二郎(わたなべ じろう、1955年3月16日 - )は大阪府出身の元プロボクサー(大阪帝拳所属)である。WBC・WBA世界ジュニア・バンタム級統一チャンピオンとして活躍した。浪商高校~追手門学院大学文学部英文学科卒業。サウスポーのボクサータイプ(構えは左だが右利きである)。高校時代は水泳部、大学時代は日本拳法部で活躍し、大学卒業後にボクシングを始めた。
[編集] プロボクサーとしての経歴
- 1979年3月、プロデビュー。
- 1980年2月、後のWBC世界フライ級王者・小林光二を1回KOに降し、全日本フライ級新人王に。
- 1981年4月、世界初挑戦。敵地でWBCジュニア・バンタム級王者・金 喆鎬(韓国)に挑むが、15回判定で敗れる。
- 1982年4月8日、2度目の世界挑戦。ラファエル・ペドロサ(パナマ)を15回判定に降し、WBAジュニア・バンタム級王座獲得。以後、6度の防衛に成功。
- 1984年7月5日、WBC同階級王者のパヤオ・プーンタラット(タイ)との統一戦に臨む。勝った場合は世界ジュニア・バンタム級の統一王者として歴史に名を残す筈であったがWBAは統一戦の開催を認めず王座を剥奪。この「幻の統一戦」を12回判定勝ちにより勝利を収めた渡辺は「事実上」世界の頂点に輝いた。
- WBAと帝拳ジムとの交渉で、リングに上がった瞬間に即剥奪はされず、試合終了後に剥奪という処分がなされている為、ほんの僅かではあるが、WBA・WBCの統一王座という記録は残る事になる。その後、WBC王者として4度の防衛に成功。この間に達成した世界タイトルマッチ12連勝は、日本では具志堅用高の14連勝に次ぐ数字である。
- 1985年12月の4度目の防衛戦では韓国に渡り、地元の尹 石煥を相手に5回KO勝ち。日本人世界王者として初の海外での世界王座防衛を果たした。
- 1986年3月30日、5度目の防衛戦でヒルベルト・ローマン(メキシコ)に12回判定負けを喫し、遂に世界王座陥落。
- 1991年11月8日、現役引退を発表。生涯戦績は28戦26勝(18KO)2敗(うち世界戦14戦12勝(8KO)2敗)。現在でも具志堅と並び、日本プロボクシング史上最強の選手の一人と言われている。
[編集] 引退後
引退後は解説者、実業家として積極的な活動をし、「オールスター感謝祭」の常連出場者としてボクサーファン以外にも名が知れ渡っていたが、1999年に殺人事件を起こした犯人に拳銃を譲り渡したとして銃刀法違反で逮捕。実刑判決を受け服役し、2004年に出所。現在はタレント業に専念し、つい最近では亀田興毅のボクシングの試合についてコメントを出した。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本のボクサー | 1955年生 | ボクシング関連のスタブ項目