浦上教会
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浦上教会(うらかみきょうかい)は、日本の長崎県長崎市にあるキリスト教のカトリックの教会堂である。1959年以降、長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル)となっている。長崎市の観光名所のひとつにもなっており、一般的には浦上天主堂の名で知られている。
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[編集] 概説
浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による信者の摘発も数回された土地であった。
鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人が居住区を作り、その一角に大浦天主堂が作られた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した神父に密会し信仰告白をし、それがきっかけとなって社会への信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様、キリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が、浦上の地へ戻り、1879年に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年に浦上村の庄屋を買い取り現在の地に移転した。
- 1895年
- 大聖堂の建設を始める。これは、大浦にも負けない、東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、20年の年月を要した。
- 1945年
- 8月9日、長崎市への原子爆弾投下により、爆裂地点から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。
- 1958年
- 被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結論は取り壊され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移築された。
- ※貴重な原爆遺構の撤去に至った経過については2つの事情があった。
- 浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再建計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の山口司教は、天主堂の立地には江戸時代のキリスト教迫害の時期に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解出来るが移転計画は信仰上受忍することは出来ないという意思を決定した(浦上天主堂公式HPにも同等の経過が記載されている)。
- 当時の市長田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して取り壊しを認める意向を決定した。
- 被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は失われてしまったが、広島市の『原爆ドーム』の様に被爆の惨状を視覚的に認知することが出来る遺物を残せなかった事、また後年には原爆ドームが史跡指定・世界文化遺産に指定された事から、撤去を惜しむ声も未だに多い。
[編集] 被爆マリア像
1929年、聖堂に取り付けられた祭壇の木製の聖母マリア像が装飾されていた。 1945年の原爆投下により本堂は倒壊するが、戦後マリア像の頭部は神父によって瓦礫の中から発見される。 その後、トラピスト修道院や長崎純心女子大学(現:長崎純心大学)の教授・片岡弥吉によって保管され、1990年にマリア像は浦上天主堂に返還された。 現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている。 ちなみにこの像のモデルはムリョーリョの『無原罪の御宿り』はとされている。
[編集] 天主堂の鐘楼
被爆時のままに保存されている唯一の旧天主堂本体の遺構。原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が、天主堂の北方約30メートルの地点に落下したもの。被爆当時の位置は小川の中であったが、現在は川を整備して流れをずらすことで陸地に保存されている。
[編集] 外部リンク
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