加賀井重望
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加賀井 重望(かがい しげもち)は、安土桃山時代の武将。美濃加賀井城主。
|
||||
時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄4年(1561年) | |||
死没 | 慶長5年7月19日(1600年8月27日) | |||
別名 | 弥八郎(幼名)。重茂、秀重、秀望(別名) | |||
氏族 | 加賀井氏 | |||
父母 | 父:加賀井重宗 |
[編集] 生涯
永禄4年(1561年)、加賀井重宗の子として生まれる。はじめ織田信長に仕え、その没後は次男の織田信雄に仕えて天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い、武功を挙げた。しかし加賀井城は豊臣軍によって落とされ、父は秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲したが、重望は秀吉に使番として召しだされ、1万石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前、三河池鯉鮒において水野忠重、堀尾吉晴らと宴席を共にしていたとき、些細なことから口論となって忠重を殺害し、吉晴を負傷させたが、最後は自らも吉晴によって殺害されてしまった。享年40。
[編集] 人物
- 武勇に優れ、加賀井城が豊臣の大軍に包囲されたときも徹底抗戦を貫いた。戦後、秀吉はその武勇を賞して、大名に取り立てたという逸話がある。