武帝 (南朝宋)
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武帝(ぶてい、363年 - 422年、在位 420年 - 422年)は、宋の初代皇帝で、その建国者。姓は劉、諱は裕。字(あざな)は徳輿、幼名は寄奴、廟号は高祖。彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山県)の人。彼の建てた国は一般的には劉宋と呼ばれる。但し、武帝は劉姓のために後世の史家によっては、劉氏=漢朝という概念が中国では古来からあるために、劉裕が建てた王朝は宋漢と呼ばれることもあるという。
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[編集] 出自
漢の高祖劉邦の弟である楚元王劉交の子孫と自称していたが、実際には、単なる貧しい東晋の下級官吏の出身であった。本人曰く「俺が前漢の楚王の末裔であるはずがないだろう」と皇帝に即いてから、自らの家系を偽称していたことを認めたという。
[編集] 東晋時代
[編集] 東晋滅亡
399年に五斗米道の信者を中心に孫恩の乱が起こった時、劉裕は、劉牢之の北府軍に属し、多大な成果を挙げた。その頃、軍の実力者であった桓玄率いる西府軍は、首都の救援の名目で、建業を制圧し、合わせて一方の軍の実力者である劉牢之を殺害した。劉牢之の死去に伴い、北府軍は解体され、劉裕も桓玄の支配に属することになる。
403年、桓玄は時の皇帝である安帝を廃し、東晋に一旦終止符を打つ。そして、国名を楚とし、自ら皇帝を称した。
[編集] 東晋復興
404年、劉裕は、腹心である劉穆之と共に、桓玄を撃つべく反乱を起こす。そして、同年5月に桓玄の首級を取り、追放されていた安帝を復位させることに成功する。東晋を復興させた功臣として発言力の増した劉裕であったが、自らの足場を確固たるものとするべく、反対派に対して、容赦ない粛正を行った。
[編集] 北伐
国内の反対派を粛正する一方で、劉裕は410年より北伐を開始する。同年、南燕を滅ぼし、417年には後秦を滅亡させ一時的ではあるが洛陽、長安を回復させた。 その功により、劉裕は相国となり、宋王と呼ばれた。
[編集] 宋時代
[編集] 禅譲
418年、劉裕は、自ら復位させた安帝を殺害し、東晋最後の皇帝である恭帝を即位させた。皇帝の位を虎視耽々と狙っていた劉裕であったが、420年、ついに恭帝から禅譲を受け、即位した。武帝の誕生である。
[編集] 即位後
劉裕は、即位後、後顧の憂いをたつため、恭帝を殺害する。また、貴族や豪族といった諸勢力を弾圧し、宋の基盤を確固たるものとした。即位後3年で劉裕は他界し、その後は長男である劉義符が即位した。
[編集] 参考文献
吉川忠夫『劉裕―江南の英雄宋の武帝』中公文庫、1989.12、ISBN 4122016711
[編集] 関連
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