劉交
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劉 交(りゅう こう、生年不明 - 紀元前179年)は、劉太公の末子で劉邦(前漢の高祖)の異母弟。前漢初期の楚王(元王)。字は游。前漢末期の碩学として知られる劉向・劉歆父子は彼の子孫に当たり、東晋の御史中丞・劉隗と劉宋(宋漢)の劉裕(高祖・武帝)も彼の末裔に当たるという。
(一説では兄の劉邦の字が“季”のために、彼は劉邦の異母弟ではなく、従弟だとの説もある。ちなみに楚の習慣としては前漢期までは兄弟順に「伯(孟)・仲・叔・季」としての字が原則だったという。また、彼は劉賈と兄弟関係にあった説もある)。
彼は劉邦とは違い、儒学を学ぶも、秦に対して反乱を起こした劉邦に従軍した。盧綰と共に劉邦の側近役を務める。紀元前201年、謀反の罪で失脚した楚王韓信の後任として、その旧領土を南北に分割した内の南部に楚王として封建される。紀元前196年、淮南王・英布が反乱を起こした際に、荊王・劉賈と共に淮南軍と戦うも、敗れて捕らえられている。間もなく劉邦に救助された。劉邦の没後、呂雉によって、領土の一部を削られるも、劉恒(文帝)の即位後、これを返還されている。
若い頃に、儒学を学んだことから、儒者を重用したことで知られる。