楽田城
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楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城。平城。現在ほとんど遺構は残っていないが、「天守」に当たる構造物を建築したとの記載が初めて資料に見える城として知られている。
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[編集] 歴史
楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道上にある。
永正年間に尾張守護代であった織田信次が築城した。そのまま孫の織田寛貞に伝えられたが、永禄初年に尾張で最大勢力となった織田家末流の織田信長についた犬山城主織田信清に攻略され、信清の出城となった。ところがまもなく永禄5年(1562年)に信清は信長に離反したために犬山城を追われ、楽田城は信長の武将・坂井政尚が守備した。しかし坂井氏は長男の久蔵尚恒が元亀元年(1570年)7月の姉川の戦いで討死、さらに政尚自身も同年12月に近江国滋賀郡堅田(現在の大津市堅田)で戦死してしまったこともあり、楽田城には梶川高盛が入って城主となった
その後小牧・長久手の戦いで前線基地となり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の部将であった堀秀政が入り、さらに秀吉自身も陣所としたという。戦後、楽田城は廃城となった。
遺構は大正年間まではある程度残っていたが犬山市立楽田小学校の用地となって徐々に失われ、昭和44年(1969年)には天守台跡も運動場とするために更地となってしまった。現在では天守台跡から移築した碑と土塁がわずかに残る。
[編集] 史上最も古い「天守」の記載
冒頭にも記したとおり、楽田城は天守の由来となる建築物をを築いたとの記載が資料にもっとも早い時点で記された城であり、小瀬甫庵の『遺老物語』巻八「永禄以来出来初之事」によると永禄元年(1558年)に楽田城中に5mほどの壇を築き、その上に二階櫓を構築して中では神仏を祭り、それを殿守(でんしゅ、天守に音が通じる)と呼んだとの記載が残る。
当時尾張を支配していた織田信長は、永禄6年(1563年)に居城とした小牧山城、さらに永禄10年(1567年)に居城とした岐阜城のいずれにも天守に相当するものを築き、さらに天正3年(1575年)から築城した安土城の中央に築いた五層七階の楼閣には天主と命名していることなどからも、天守の名が尾張から生まれたと考えている学者もいる。また、尾張でこうした構造物が発展した背景には、起伏の少ない濃尾平野では、16世紀半ばまでの他の地域のように山城を築くことが困難であったために平城が発達することとなったが、同時に遠方を観測するための櫓が必要となり、天守が発生することとなったと考えられている。なお、永禄年間には、大和国でも松永久秀が多聞山城や信貴山城で大規模な櫓を構築した記録があるが、天守の名はそこには見出せていない。