織田信次
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織田信次
織田信次(おだ のぶつぐ ? - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は尾張国出身の戦国武将。孫十郎とも。官位は右衛門尉を名乗った。父は織田信定、母は織田良頼の娘。織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。
織田信光が守山城から那古屋城へ移ったあと、信次が守山城の城主となった。
1555年のある日、信次が家臣を連れて川狩りをしていたところ、無礼な態度の若者がいたので信次の家臣は弓で射殺した。しかしその若者は信次の甥であり、信長の弟であった織田秀孝だった。信次は、信長の怒りを恐れ守山城を捨てて逃亡した。やがて守山城下は織田信行軍に焼き払われた。
その後守山城は信長の弟である織田信時が城主を務めたが、信時は守山城の重臣の角田新五の謀反にあい自害。放浪中の信次は信長に罪を許され守山城主に戻った。
それからの信次は信長と共に各地を転戦する。
天正二年(1574年)、伊勢長島の一向一揆攻めに参加。激戦の末一向宗は降伏する。だが降伏を了承した筈の信長は騙し討ちをかけ、鉄砲隊で無防備な一向宗を次々と射殺させた。激怒した一向宗の捨て身の攻撃によって信次は戦死。
その後信長は反撃に移り、一向衆20000人を虐殺した。