松平頼則
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松平 頼則(まつだいら よりつね 1907年5月5日 - 2001年10月25日)は日本の作曲家、ピアニスト。
目次 |
[編集] 略歴
子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区に生まれる。慶應義塾大学文学部仏文科中退。大学時代からピアノをラウルトルップに、和声学と対位法と楽式論をヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事したが、ほぼ独学。1930年、清瀬保二や箕作秋吉や菅原明朗や橋本國彦たちと共に新興作曲家連盟を結成。同年、ピアニストとしてデビュー。
1946年、清瀬保二や早坂文雄や伊福部昭たちと共に新作曲派協会を結成。上野学園大学教授、日本現代音楽協会委員長を歴任。1972年紫綬褒章、1979年勲四等旭日小綬賞受賞。1996年、文化功労者に選ばれた。2001年糖尿病で没。享年94。
長男の松平頼暁も作曲家。
[編集] 作風とエピソード
[編集] 第一期 (1928-1955)
チェレプニン賞第二席の「パストラル(1935)」でデビューした彼のスタートラインは、意外にも端正な新古典主義の作品であった。深井史郎から「カチカチ」と評されたのはある程度は的をついており、譜面が整いすぎてアゴーギクに支障が出ることは否めなかった。そのような中でも「古今集(1939-1945)」で見られる和声付けは、他の日本のどの作曲家よりも典雅に選ばれており後年の資質を感じさせる。「前奏曲ニ調(1934)」はアレクサンドル・チェレプニンの演奏で録音されている。当時はピアノパートを必ず自作自演で対応していたが、第二期以降は演奏活動を特別の機会がない限りほぼ中断している。
松平は梶井基次郎も臨席したアンリ・ジル=マルシェックスのピアノリサイタルに大きな感銘を受けたことがきっかけで、驚異的なスピードで印象派以降の和声イディオムを吸収した。ジル=マルシェックスは当時の日本の常識を覆す近代作曲家の日本初演の連続で聴衆を驚愕させた(ストラヴィンスキーのペトルーシュカによる三つの楽章はこの時に日本初演)。自作を献じた松平は、マルシェックスからの印象も好評であったらしく、「(松平氏の)前奏曲ほかはモーリス・ラヴェルの元にも持っていく」と伝えられたが、当のラヴェルからの反応は残念ながら残されていない。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮とイヴォンヌ・ロリオの独奏で演奏されたピアノとオーケストラの為の「盤渉調越天楽による主題と変奏(1951)」(ツェルボーニ社の楽譜でのタイトルでは単に「主題と変奏Tema e Varie」)は、越天楽の演奏で最も良く聴かれる平調ではなく盤渉調を採用している。このため平調からの単なる西洋音楽的な移調ではなく、メロディラインが若干異なる。この曲では20世紀前半に完成された近代和声の見本市のような様相に加え、十二音技法を部分的に採用した。フィナーレではブギウギも用いられるなど、この時期にはクラシック音楽と商業音楽の中継点すら探っていた。しかし、この初演後早坂文雄から呼び出しを受け、「松平さんの音楽を、このような方向に曲げることはならぬ」と厳しく勧告されたという。
なお、彼は必ず朝作曲しないと気が済まなかったらしい。そのことは「フルートとクラリネットの為のソナチネ(1940)」の出版の際「この曲のみ、夜作曲している」と断り書きを入れていることからも明らかである。作品が出来上がるとすぐに公募やコンクールに投函する態度も、最晩年まで変わらなかった。このような事情の為、松平の作品は海外で評価が一旦確立してから、逆輸入の形で日本に伝えられることがほとんどであった。正規の音楽学校を出ていなかったために、国内の批判は一種の暴言に近かったと言われている。(これは武満徹などの多くの昭和一桁生まれの日本の作曲家にも、同じケースが見られる。)
[編集] 第二期 (1956-1970)
この時期には十二音技法を全曲に渡って敷衍し、雅楽の調子(旋法)を十二音技法で再分析する作曲技法を開発した。ただし、雅楽の旋法分の7音に対して残りの5音はかなり自由に選ばれており、この自由選択から不確定性へも開眼したことがさらに作風の幅を広げることとなった。50歳を過ぎても海外の動向を常にリアルタイムで追う松平の行動はヨーロッパですら脅威とみなされ、ピエール・ブーレーズ、ゴッフレド・ペトラッシ、ヴィトルト・ルトスワフスキに激賞された。
特にぺトラッシとは国際作曲コンクールの第一位受賞時から特に親しくなり、彼から邦人作品をツェルボーニ社から順次出版する約束を交わしたことが特筆される(現在、この約束はツェルボーニ内紛で破棄)。初め「右舞」(1957)がISCMワルシャワ国際大会で公募入選した際、ルトスワフスキに「どうしてこれをコンクール枠で出さなかったのだ?間違いなく優勝しただろうに」と絶賛された。この後松平は同じ様式で「左舞」(1958)を作曲、これが上記のISCMローマ国際大会のコンクールでの受賞曲である。当時のISCMは現代音楽のためのコンクールと公募の稀少さの為に、「コンクール枠」と「公募枠」を別々に設けていた時代の産物でもあった。
松平の個性を決定つけた「桂(1959)」では、当時はまだルチアーノ・ベリオですらも模索中だった素材音高音列の使用と十二音技法が、幾何学的に絡む装飾音に彩られた書法とマッチしており、この作品で彼は雅楽に開眼したと伝えられる。当時の多くの作曲家がセリー技法とパルス構造との矛盾に悩む中、50年代末期の時点であっさりと打楽器奏者に淡々とパルスを託し、なお品格が損なわれることがない。しかし、彼は同一路線で多作するタイプであったが為に、多くのフィギュアも後の別作品に頻出しており、ここが終生賛否が割れる要因となった。現在も、この問題は研究者間で決着がついていない。
不確定性を採用した「蘇莫者(1961)」はフルート独奏の古典と目され、現在も様々な名手によって再演されている。フルーティストの個性により、曲想も全く変わってしまうほど自由度の高い楽曲だが、彼は全ての選択ヴァージョンにOKを出すなど寛容であった。
かつては選択性と断片を併記する記譜法であった。それではヴァージョンの自由度があまりにも高いと判断したのか、二台のピアノと二人の打楽器奏者の為の「ポルトレB(1967-1968)」ではあらかじめ一つのヴァージョンを全て書き終わってから次のヴァージョンを作曲し、最終的に書き終わった全てのヴァージョンの中から選択するように命じた。これら1960年代の様々な試みの後、最終的には不確定性を破棄した。
井上二葉の演奏で知られるピアノ組曲「美しき日本(1970)」は、日本の俗謡から雅楽に至る諸形式をピアノ独奏で描き出すことに成功し、日本ピアノ曲史上屈指の名作との呼び声が高い。同時発音数も控えめに薄い音楽密度が保たれるが、いささかの美学の狂いもなく、完璧な書法で圧倒している。第一曲で見られるように、「素材ごとに終止線を引く」形式は、雅楽における残楽からの影響が指摘される。この年には、折に触れて作曲していた子供の為の教育用作品の難易度を上げた格好の、「日本の旋法によるピアノの為の練習曲集(1970)」も書き上げられた。これら二作品には、硬派な前衛イディオムを用いて世界に訴える松平とはまた違った一面を覗く事が出来る。
元からそうであったが、第二期以降は演奏家に対して一切の妥協がないために、「ピアノ的なソルフェージュのままで作曲するために、声楽やクラリネットでこの跳躍音程は性能上不可能」、「エクリチュールに隙がなさ過ぎるために、アゴーギクに支障が出る」、「譜面に書いていないことが多すぎる」などの問題点も、一切放置した。多くの批判を生んだが、この態度は賢明であった。この妥協のなさに完璧な形で答える演奏家達に、第三期で出会うことになったからである。
[編集] 第三期 (1971-1993)
前衛の時代が終わっても松平は自己様式をゆがめることがなかった。名作「ピアノ協奏曲第二番(1979-1980)」、「二群のオーケストラの為の循環する楽章(1971)」、二つのフルート、二つのクラリネットと四人の打楽器奏者のための「振鉾三節による変奏(1978-1979)」などの諸作品も散々な初演の出来栄えであったが為、聴衆の態度は横柄なものであったと言われている。
「雅楽の旋法による6つの即興曲(原曲の二台ピアノ版は1987,後にピアノ独奏版は1991)」では旋法上の音を故意に強調するため、セリエル的なテクスチュアの中から民族色がほのかに浮かび上がる。松平の技法はセリー分析が1950年代から困難であったが、この時期に入るとさらに自由な音選択がされているため、聴覚上と書法上の両面に於いて旋法上の音名に細い装飾で異化された形状の外郭しか把握できなくなっている。作曲に用いるメディアによってイディオムの棲み分けを図っていた松平は、第三期以降これらのイディオムの統合を徹底的に行ったが故の産物でもあった。「システムになっているかなっていないかの、中ぐらいのが一番いいんですよ」という彼の理想は第三期でここに確立する。
名演奏が得られないことを苦にしていた松平は、1人のソプラノ歌手奈良ゆみと出会う。彼女は元々音程の取り方に、ずり上げずり下げといった日本的慣習を伴ってどの国の作曲家の作品も唄っていた。これが個性なのか技術上の不備なのか賛否が割れている中、松平はその演奏マナーを絶賛した。「この歌手を20年待った!」という彼の決意は、モノオペラ「源氏物語(1990-1993)」の作曲に全精力が費やされる形となって1993年に完成する。本作品は、グランドオペラのように全楽器をソプラノソロに対峙させることはなく、原詩の内容に応じて異なった楽器編成が用意されている。この作品こそが、最も日本語に相応しいオペラであるという見方をする音楽関係者は多い。彼女の歌唱能力に応じて作風がより官能的に変化したことが、多くの聴衆を驚かせた。
邦楽器を使うことには消極的であった彼も、この時期にはふんだんに使われ、神々しさを増している。かつては笙の和音を不自然に6つのヴァイオリンで代用するなど、なかなか邦楽器に手を染めたがることがなかったのは、松平自身枯渇したときの最後の切り札として邦楽器を考えていた節がある。しかしながら、細棹三味線のように忌避した楽器は、没年まで一切用いられる事はなかった。
「心から(『朧月夜』)(1993)」は奈良ゆみの歌唱が遺憾なく発揮された名作である。一つの音に山状のポルタメントを付ける事で、原詩の抑揚を表現した。
[編集] 第四期 (1994-2001)
作品世界を理解した名演奏家にも恵まれ、源氏物語を完成させても、彼の作風は晩年まで進化した。ポール・メファノは、どの日本人留学生に向かっても、必ず彼の活動状況を尋ねたと伝えられる。「ピアノ協奏曲第三番(2000-2001)」と「宇治十帖(1998)」はその軌跡を語る上で欠かせない作品であることが解っているが、未上演のままである。声の肉感性を極限まで第三期で追及した松平は、この時期からは濃厚なポルタメントも影を潜め、より起伏や展開の感じられない淡々とした音調を綴る事を好とした。ピアノ独奏の為の「運動(2000)」やフルート、ソプラノ、筝の為の「三つのオルドルⅡ(1995)」では、高揚らしきものはほとんど感じられない。他にこの時期で比較的音源と楽譜が容易に入手できる作品としては、管弦楽のための「春鶯囀(しゅんのうてん)(1996)」などが挙げられる。
亡くなる数時間前までソプラノ、フルート、ピアノの為の「迦楼羅(かるら)(2001,絶筆であり全曲は未完,急の曲のみ初演済)」を作曲していたというほど、最期においても作曲家としての態度を一貫させた人生であった。
[編集] 作品
[編集] 管弦楽
- パストラル
- 南部民謡による主題と変奏曲
- 富士縁起
- 「拾翠楽」による主題と変奏
- レントとアレグロ
- 「越天楽」による主題と変奏
- フィギュール・ソノール
- 右舞
- 左舞
- ダンス・サクレ――振鉾による
- ダンス・フィナール――振鉾による
- 舞楽組曲
- 主題と変奏
- 3群のオーケストラのための舞踏組曲
- シンフォニエッタ
- 室内管弦楽のための舞楽
- ピアノと管弦楽のための三楽章
- セレナード(フルート、オーボエ、クラリネット、2打楽器、6ヴァイオリン)
- 長慶子
- ピアノ協奏曲
- 室内協奏曲
- 前奏曲
- 「青海波」による管弦楽のための音楽
- 管弦楽のために
- 舞踊組曲
- ディアローグ・コレグラフィック(2ピアノ、2フルート、オーボエ、4クラリネット、ファゴット、2ホルン、ハープ、5打楽器)
- 2群のオーケストラのための循環する楽章
- 迦陵頻、破
- 品玄
- ポルトレ(C)
- ピアノ協奏曲第2番
- ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ
- 春鶯囀
- 青海波
- 春鶯囀II
- ピアノ協奏曲第3番
[編集] 吹奏楽
- 日本舞曲
- 蒙古行進曲
[編集] 室内楽・器楽
- 幼年時代の思い出(ピアノ)
- 前奏曲ニ調(ピアノ)
- パストラル(1934/管楽器、打楽器、ピアノ)
- フリュートとピアノのためのソナチネ
- 6つの田園舞曲(ピアノ)
- 前奏曲ト調(ピアノ)
- ソナチネ(1940/フルート、クラリネット)
- セロとピアノのためのソナタ
- 2台のピアノのためのコンセルタンテ
- ソナチネ(1948/ピアノ)
- ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
- ピアノ・トリオ(ヴァイオリン、チェロ、ピアノ)
- スケルツィーノ(フルート、ピアノ)
- ソナタ(ピアノ)
- 弦楽四重奏 I
- 平調越天楽を主題とする変奏曲(ピアノ)
- トリオ(フルート、ファゴット、ピアノ)
- 弦楽四重奏 II
- メロディ(雅楽)
- 蘇寞者(1961/フルート)
- セレナード(フルート、器楽アンサンブル)
- 音取と神聖な舞踊(室内管弦楽)
- 10人の演奏者のための組曲
- チェンバロとハープのための室内協奏曲
- ポルトレ(B)(2ピアノ、2打楽器)
- 17人の奏者のための投影
- 17人の奏者のための変形
- 12のやさしいピアノ曲(日本民謡のスタイルによる)
- 子供のためのピアノ曲集
- 子守唄集(日本民謡のスタイルによる12の子守唄)
- ピアノのため(日本民謡のスタイルによる16のやさしいピアノ曲)
- わらべ唄と民謡による子供のためのピアノ曲集
- 蘇寞者(1970/オーボエ、または打楽器、またはピアノとハープ)
- ギタールのためのソナチヌ(ギター)
- わらべ唄による子供のためのピアノ曲集I・II
- 日本の旋法によるピアノのための練習曲集
- 美しき日本(ピアノ)
- 南部民謡による作品(ピアノ)
- 音取、品玄、入調(プレリュード、アンテルリュード、ポストリュード)(管楽器、打楽器、ピアノ)
- 前奏曲(ピアノ)
- 6つの前奏曲(ピアノ)
- 雅楽のための協奏曲
- モザイク(管楽器、ピアノ、ハープ、打楽器)
- 6つのディアパソン(ピアノ、ハープ)
- 神聖な舞踊による3つの楽章のための変奏曲〔振鉾三節による変奏曲〕(2フルート、2クラリネット、4打楽器)
- 10楽器の為のラプソディ(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノ、2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
- 盤渉調「越天楽」によるピアノのための主題と変奏
- 音取、品玄、入調(ピアノ〔フルート〕、打楽器)
- 破(フルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ピアノ)
- 雅楽の旋法による6つの即興曲(2ピアノ)
- 序(フルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ピアノ)
- I リート(平調)(ピアノ)
- IIリート(黄鐘)(ピアノ)
- 小曲(クラリネット、マリンバ、ピアノ)
- 「二星」のための前奏曲(ピアノ)
- 「更衣」のための前奏曲(ピアノ)
- 「藤壺」のためのプロローグ(笙、フルート、筝)
- 「紫」のためのプロローグ(笙、フルート、筝)
- 「明石」のためのプロローグ(笙、フルート、筝)
- 2つの唱歌のためのプレリュード
- 品玄(笙、アルトフルート、バスフルート、打楽器)
- 幻(笙、アルトフルート、筝)
- 遊声(フルート、クラリネット、トランペット、打楽器、ピアノ)
- 道行(チェレスタ、ヴィブラフォン、ハープ、マリンバ、ピアノ)
- 半音階的トッカータ(ピアノ)
[編集] 声楽
[編集] テープ音楽
- ラジオのためのプレリュード、カノン、アリア、主題と変奏(1954)
[編集] 映画音楽
- 桃山美術(1952)
- 新しい米つくり(1955)
- 銀行のはたらき(1957)
- はだかの天才画家 山下清(1957)
- 限りなき創造 -若さをつくる人々-(1957)
- ミクロの世界 -結核菌を追って-(1958)
- 桂離宮(1959)
- 追われるガン細胞 ガン・シリーズNo.3(1961)
これらのうち、「ミクロの世界」「追われるガン細胞」については、東京シネマ新社のサイトにてストリーミング配信されている。
[編集] テレビ番組のための音楽
- 祇園花見小路(1973 東芝日曜劇場)
[編集] 団体歌
- 京都外国語大学学歌
[編集] 著書
- 『近代和声学』(音楽之友社/1955;1969新訂)
[編集] 出版
全作品の著作権が2071年に切れ次第、デュラン社は松平の個人全集を出版すると発表した。生前は音楽之友社、全音楽譜出版社、リコルディ社、ツェルボーニ社、ソニック・アーツなどに渡って作品を出版していたが、最重要作すらもこれらの出版社から入手できない有様である。
[編集] エピソード
1999年、NHKがドキュメントとして松平の生活を収録した番組「妻に贈る銀の調べ」が放映された。この番組は反響を呼び再放送の問い合わせも多く来た。
しかし、実際は大変に問題のある番組内容であった。晩年の「源氏物語」や「宇治十帖」などの大きな作品群について作曲家本人や周囲の演奏家にインタビューし収録したものの放送では一切触れず、過去の古い小品ばかりを放送し視聴者に対して彼の作風を完全に誤解させたこと、また作曲家とその家族のつつましい日常生活を必要以上に強調して描写し、いわゆる「お涙頂戴番組」に仕立てたことなどが、名誉毀損に当たるとして作曲家およびその周囲が憤慨しNHKに対し抗議、NHK側がその番組の担当者を更迭する騒ぎとなった。