東海北部線
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東海北部線 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 동해북부선 |
漢字: | 東海北部線 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
とうかいほくぶせん |
片仮名: (現地語読み仮名): |
トンヘブクプソン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語案内: | Donghae Bukbu Line |
東海北部線(トンヘほくぶせん、とうかいほくぶせん)は、日本統治時代の朝鮮半島に存在した鉄道路線。
日本統治時代には建設途中のローカル線であったが、日本の統治終了と朝鮮戦争の結果、路線が軍事境界線をまたぐことになったため、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国側いずれにおいても事実上廃線となった。
目次 |
[編集] 概要
元は、東海(日本海を意味する朝鮮語)に沿って京元線が通る元山から慶州・釜山までを結ぶ東海線の計画に基づいて、慶州から北進する東海南部線と、元山(厳密には京元線の途中の安辺)から南進する東海北部線の建設が始められ、1929年(昭和4年)より暫定的にその一部が順次営業を開始したものである。1937年(昭和12年)には襄陽までが開業したが、ここから先は建設中のまま終戦を迎えた。
暫定開業であったことから重要性は低い路線で、旅客列車の本数は数往復程度であり、東海北部線の駅は「朝鮮総督府鉄道で最も勤務が楽な駅」とも職員から呼ばれたと言われる。しかし、沿線には金剛山観光の入り口である外金剛駅など、いくつか観光地も存在し、観光シーズンの5月から10月にかけての日曜・祝祭日の前日には、京城からの夜行列車が外金剛駅まで運行された。
太平洋戦争終結後、日本統治終了により38度線で国土が分断された後、東海北部線の運行は北朝鮮側の手によって行われていたが、その後の朝鮮戦争で設備は完全に破壊されて事実上の廃線となった。終点の襄陽から先の工事も進んでいたが、未成線となった。
1962年に、韓国によって東海線の一部になる予定であった東海~江陵間が嶺東線として開業したが、東海北部線の復旧工事は南北いずれでもなされずに放置されていた。
北朝鮮側では1970年代初めから再建工事が行われていたとの報告もあるが、結局1997年に金剛山青年線として、安辺からかつて外金剛駅があった場所に建設された金剛山青年駅までの路線が、電化された上で復旧された。しかし北朝鮮の燃料不足とそもそもの不良工事のために列車の運行はなされず、休線のまま放置されていると言われる。
2000年の南北首脳会談により、京義線と共にロシアなどが貨物輸送で注目していることもあって、東海線も復旧工事を行うことが議決された。それに伴い2002年9月に東海北部線の連結工事が着工され、以後韓国と北朝鮮が共同で工事を進めている。韓国側では猪津駅、北朝鮮側では鑑湖駅など駅舎の工事が行われ、鉄道本体の工事も進み、2006年5月25日に南北直通試運転が行われる予定となったが、24日午前に北朝鮮側から突然中止を通告された。今後の動向や開通時期は未定である(2006年5月現在)。
[編集] 路線概要
- 1942年当時
- 路線距離:安辺~襄陽間192.6km(現在の北朝鮮側が草邱以北の約70km、韓国側がそれ以南の約120km)
- 軌間:1435mm
- 電化区間:なし
- 複線区間:なし
- 2005年現在(南側および金剛山青年駅までの北側の区間)
- 路線距離:金剛山青年~猪津間25.1km(北側18.5km。南側6.6km)工事中
- 軌間:1435mm
- 2005年現在(北側)
- 電化区間: 全線(直流3000V)
- 複線区間:なし
[編集] 運行概要
1942年10月1日改正当時
- 運行本数:元山~襄陽間3往復半、元山~高城間1往復、高城~襄陽間下り1本
- 所要時間:元山~襄陽間7時間20分~10時間20分
[編集] 駅一覧
- 1942年当時
- 安辺 - 桑陰 - 歓谷 - 沛川 - 庫底 - 通川 - 荳白 - 長箭 - 外金剛 - 高城 - 猪津 - 巨津 - 杆城 - 文岩 - 束草 - 洛山寺 - 襄陽
- 2005年現在(工事中、南側および金剛山青年駅までの北側の区間)
- 金剛山青年 - 三日浦 - 旧邑里 - 鑑湖 - 猪津
- 金剛山青年、三日浦、旧邑里、鑑湖は北朝鮮管轄、猪津は韓国管轄である。
- 金剛山青年 - 三日浦 - 旧邑里 - 鑑湖 - 猪津
[編集] 接続路線
- 安辺駅:京元線
[編集] 関連項目
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