東京国立博物館
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東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立博物館が運営する博物館である。
1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。収蔵品の総数は11万件を超え、国宝87件、重要文化財610件(2005年7月現在)を含む。
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[編集] 沿革
[編集] 草創期
1872年(明治5年)3月、その前年に設置された文部省博物局により、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催された。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりであった。東京国立博物館はこの年を創設の年としている。展示品は、翌1873年(明治6年)開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心であった。当時の錦絵を見ると、会場にはガラスケースが所狭しと置かれ、書画、骨董、動植物の剥製や標本などが並べられており、展示品のなかでは名古屋城の金鯱(しゃちほこ)が呼び物だったようである。この博覧会は3月20日から20日間の会期を予定していたが、あまりの人気に入場制限をせざるをえないほどで、会期を再度にわたり延長し、4月末日まで開催された。総入場者数は15万人と推定されている。
1873年(明治6年)、「文部省博物館」は太政官正院の「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、場所も湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転した。この年は4月15日から3か月半にわたり、博覧会が開かれた。なお、この当時の博物館は動物、植物、鉱物などの標本も収集展示の対象であった。
1875年(明治8年)、「博覧会事務局」はふたたび「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。「博物館」は一時「内務省第六局」と改称されたが、翌1876年(明治9年)、再度「博物館」に改称。同年、町田久成(1838-1897)が博物館長に任命された。薩摩藩出身の官僚であった町田は、明治時代初期に博物館設置や文化財保護に尽力した人物である。東京国立博物館では彼を初代館長としており、博物館の裏庭には町田の顕彰碑が建立されている。なお、博物館の所管官庁は、1881年(明治14年)に農商務省、さらに1886年(明治19年)に宮内省へと変わった。
1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第1回内国勧業博覧会が開催された。これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って開催されたもので、この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で最初に「美術館」と称した建物として知られる。初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であり、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園への移転を陳情していたが、この年、太政官より上野移転の裁可を得た。
1881年(明治14年)、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の本館が完成。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計であった。この本館は、同年上野で開催された第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)3月から博物館の本館として使用されるようになった。4年前の第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用された。なお、本館、2号館とも関東大震災で大破し、現存しない。
[編集] 帝室博物館から国立博物館へ
1889年(明治22年)、「帝国博物館」と改称。同時に京都と奈良にも帝国博物館が設置され、九鬼隆一が総長となった。当時の美術部長は明治時代の美術界の理論的指導者であった岡倉天心であり、アメリカから来た哲学者・美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事を務めていた。この頃から美術系博物館としての性格が強まる。
1900年(明治33年)、当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称。「東京帝室博物館」の名称は1947年(昭和22年)まで使用された。
1947年(昭和22年)、新憲法施行の日をもって「国立博物館」と改称。「東京国立博物館」と称するようになったのは1952年(昭和27年)からである。所管は宮内省から文部省へ移った。
[編集] 第二次大戦以降
大戦後まもない1947年9月に機関紙「博物館ニュース」が創刊されている。同ニュース創刊号の第1面には「国民と博物館 古美術品は見直されねばならない」という論説記事が掲載され、大戦前の「帝室博物館」から国民のための博物館への転換姿勢が明確に示された。第二次大戦後の博物館は、新たな展示館(東洋館、法隆寺宝物館)の建設と収蔵品の増大によって平常陳列の拡充をはかるとともに、毎年多くの特別展や特集陳列を実施してきた。中でも1965年(昭和40年)のツタンカーメン展、1974年(昭和49年)のモナ・リザ展などは大きな反響を呼び、社会的な話題となった。創立100周年の1972年(昭和47年)には「東京国立博物館所蔵名品展」、創立120周年の1992年(平成4年)には特別展「日本と東洋の美」が開催され、館の歴史に関わる資料なども併せて展示された。
機構面では、1950年(昭和25年)、文化財保護委員会が設置されるとともに東京国立博物館は同委員会の附属機関となった。同委員会が1968年(昭和43年)に廃止され、これに代わって文化庁が新設されたことに伴い、博物館は文化庁の附属機関となっている。なお、独立行政法人国立博物館の管轄下に移るのは2001年(平成13年)のことである。
[編集] 新館の建設
第二次世界大戦後の東京国立博物館では、新たな展示館の建設が相次いだ。1962年(昭和37年)には構内南西隅に法隆寺宝物館が竣工し、2年後の1964年から一般公開されるようになった。これは、1878年(明治11年)に廃仏毀釈で困窮した法隆寺に皇室が一万円を下賜し、かわりに献納された宝物300余件を収蔵展示するためのもので、その建設は長年懸案とされていたものであった。なお、この時の建物は30年ほど使用された後に取り壊され、1999年(平成11年)にレストランや資料室を備えた新・法隆寺宝物館が開館している。1968年(昭和43年)には構内東側に東洋館が開館し、日本以外のアジア地域の美術品はこちらへ移された。1984年(昭和59年)には構内西側、表慶館裏手に資料館が開館し、従来公開要望の多かった、館所蔵の図書、歴史資料、写真資料などが研究者に公開されるようになった。
博物館においては、平常陳列とともに特別展の開催も重要な事業の1つである。しかし、大規模な展覧会の場合は、本館の平常陳列を一時撤去して特別展会場とせざるをえず、恒久的な特別展会場を含む新館建設の必要性が論議されてきた。このため、構内の中長期整備計画の中でその建設地が検討され、本館西側にあった別館(大講堂などがあった)と北倉庫を取り壊して新たな展示館を建設することとなった。特別展会場、考古資料展示室、大講堂などを含む新展示館は平成館と名付けられ、1999年に開館した。
[編集] 施設
[編集] 本館
1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工し、翌1938年開館した。設計は公募で、渡辺仁の案が採用された。瓦屋根に寺院のような破風(はふ)を付した、帝冠様式の代表的建築とされる。内部は、中央階段ホール付近の雄大な空間構成が秀逸である。建物自体が重要文化財に指定されている。展示室は1・2階に計25室あり、中央の大階段を取り巻いて「ロ」の字状に展示室が配置されている。日本の絵画、彫刻、工芸、書跡が展示されている。独立行政法人化以降は「日本ギャラリー」の別称を付している。
2005年現在の陳列状況は以下の通りである。
- 第1室~第10室(2階) - 「日本美術の流れ」と題し、時代別の展示を中心として「仏教の美術」「茶の美術」「武士の装い」「能と歌舞伎」などのテーマ展示を織り交ぜている。第2室は「国宝室」として、毎回1件の国宝が交替で展示されている。
- 第11室~20室(1階) - 1階は「ジャンル別展示」となっており、第11室~第16室には彫刻、金工、陶磁、漆工、刀剣、民族資料(アイヌ、琉球)、歴史資料が展示されている。なお、絵画、書跡については2階の「日本美術の流れ」の中で展示されている。第17室は平成館への通路兼休憩室、第18・19室は近代美術、第20室は寄贈者顕彰室となっている。
- 特別1・2室(2階)、特別3・4室(1階) - 入口両側にある小展示室で、「新収蔵品展」などの企画展示が行われる。
- 特別5室(1階) - 大階段裏の大きな展示室で、平常展示はなく、主に子ども向けのイベント会場として使用されている。
[編集] 東洋館
谷口吉郎設計で、1968年(昭和43年)開館。中国、朝鮮半島をはじめ、東南アジア、インド、エジプトなどの美術品を展示している。展示室は10室。独立行政法人化以降は「アジアギャラリー」の別称を付している。
東洋館は3階建ての建物であるが、中2階と中3階の面積が大きく、階段が多いため、5階建てのような感を受ける。内部には1階から3階天井まで達する巨大な吹き抜け空間をつくり、展示室の配置は複雑になっている。
2005年現在の陳列状況は以下の通りである。
- 第1室 - 中国・インド・ガンダーラの彫刻
- 第2室 - 廊下状の狭い展示室で、中国美術の一部を展示。
- 第3室 - エジプト、東南アジア、南アジア、西アジア
- 第4・5室 - 中国の考古と工芸
- 第6・7室 - 吹き抜けを渡るブリッジ状の展示スペースで、中国の画像石を展示。
- 第8室 - 中国の書画
- 第9・10室 - 朝鮮半島、西域
[編集] 表慶館
1909年(明治42年)、東宮(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館した。設計は宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)。建物は重要文化財に指定されている。展示室は1・2階に9室あり、長らく考古資料の展示に使われていたが、平成館開館以後は特別展示等に時折使用されるほかは閉鎖されている。
[編集] 法隆寺宝物館
1878年(明治11年)、法隆寺から皇室に献納された宝物300件あまりを保存展示するため、1964年(昭和39年)開館された。現在の建物は2代目で、1999年開館。設計は谷口吉生(東洋館設計者・谷口吉郎の子)。
[編集] 平成館
皇太子(浩宮)成婚を記念して1999年に開館。1階は考古資料展示室と企画展示室、2階は特別展会場となっている。
[編集] その他
構内には他に、資料館(図書、写真等の資料を収蔵)、旧因州池田家表門(重文)、旧十輪院宝蔵(重文)、筑前福岡藩黒田家の江戸屋敷の鬼瓦、茶室などがある。
[編集] 組織と事業内容
[編集] 目的
独立行政法人国立博物館法第2条は同法人の目的を「博物館を設置して、有形文化財(中略)を収集し、保管して公衆の観覧に供するとともに、これに関連する調査及び研究並びに教育及び普及の事業等を行うことにより、貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を図ること」であるとしている。文化財の収集・展示とともに、調査研究活動、教育普及活動が国立博物館の主要な活動であることがここに明示されている。
東京、京都、奈良、九州の4国立博物館を設置する独立行政法人の本部には、理事長、事務局長のもとに総務課、資産活用課が置かれている。同法人が設置する東京国立博物館には、館長、副館長のもとに営業開発部(渉外、経理など)、事業部(情報管理、教育普及事業、出版事業、特別展の企画など)、文化財部(展示、文化財の修復保存など)の3部が置かれている。
[編集] 特別展
特別展には館が独自に企画・主催するものと、新聞社・テレビ局などと共催のものとがある。後者には「ベルリンの至宝展」のように海外の美術館の所蔵品を紹介するもの、「国宝 興福寺展」のように、社寺の宝物を一堂に公開するものなどがある。博物館では館内における特別展のほか、館の所蔵品を広く紹介するための巡回展を、日本国内・国外の美術館で開催している。また、特別展より小規模なものとして「特集陳列」が随時行われている。これは平常陳列の中で「写経」「蒔絵」など特定のテーマを取り上げるものである。
[編集] 教育普及活動
平成館内の大講堂では月例講演会のほか、特別展開催時などに記念講演会が実施されている。「列品解説」は展示室において、実際の展示を見ながら専門家の解説を聞くもので、週1回程度開催されている。このほかボランティアによるガイドツアーが随時開催されている。子ども向けには「親と子のギャラリー」「ワークショップ」などが開催されている。 また、コンサート、茶会などの催し物が随時開催されている。
[編集] 出版事業
機関紙「東京国立博物館ニュース」(旧「国立博物館ニュース」)は1947年にタブロイド紙として創刊されたもので、現在は隔月発行となり、展示と催し物案内を主としている。
研究誌「MUSEUM」は、1951年に創刊された月刊誌で、館内外の研究者による論文を毎号3~4本ほど掲載している。
『東京国立博物館図版目録』博物館の膨大な所蔵品のジャンル別写真入り目録で、1960年に「浮世絵版画編 上」が刊行されて以来、刊行が継続されている。
上記のほか、名品図録、紀要、所蔵品の調査研究報告書などが刊行されている。
[編集] コレクション
東京国立博物館の所蔵品(館の用語では「列品」という)は11万件を超えると言われている。これはあくまでも「点数」ではなく「件数」であって、考古資料などには1つの遺跡の出土品数百点が一括で「1件」と数えられている場合もあり、所蔵品の「点数」はさらに膨大なものとなる。このうち展示されているのは約3,000件と言われ、随時陳列替えが行われている。館の所蔵品のほかに社寺、個人所蔵家などからの寄託品も多数ある。所蔵品の入手経緯は、(1)明治初期以来、博物館の予算で購入してきたもの、(2)個人や団体からの寄贈品、(3)第二次世界大戦後に文化財保護委員会(のち文化庁)から管理換えされたものなどに分けられる。なお、いわゆる法隆寺献納宝物は1878年(明治11年)、法隆寺から当時の皇室に献納され、宮内省が管轄していたが、1947年(昭和22年)に国立博物館に移管されたものである。
所蔵品は、地域的には日本およびアジア諸国、時代的には先史時代からおおむね第二次世界大戦終戦頃までのものを収集・展示の対象としている。なお、日本の地域で制作されたもののうち、アイヌの人々の美術と琉球美術については独立した展示室があてられている。東洋美術は、日本と地理的に近く、文化的にも影響の大きい中国および朝鮮半島の美術に力点が置かれているが、他にエジプト、インド、東南アジア(ベトナム、タイ、クメールなど)、中近東(メソポタミアなど)、中央アジアなどの美術品が見られる。このほか、南太平洋諸島の民族美術、西洋近代の陶磁器やガラス製品なども収蔵されているが、通常は展示されていない。
いわゆる美術品の範疇に属するもの以外に、歴史資料、図書、写真資料も多く所蔵されている。所蔵する歴史資料の代表的なものとしては長崎奉行所キリシタン関係資料、江戸幕府が作成した絵地図である「五海道其外分間延絵図並見取絵図」(ごかいどうそのほかぶんけんのべえず ならびに みとりえず)全80巻、伊能忠敬の測量図、日本初の文化財調査である壬申検査の関係資料、旧江戸城写真帖などがある。博物館構内西側に位置する資料館には、図書資料、江戸時代のものを中心とする古文献資料、拓本、絵図、地図などの歴史資料、写真やマイクロフィルムなどが収蔵され、研究者には閲覧の便が図られている。このほか、通常は陳列されていないが、帝室博物館時代に収集された世界の郵便切手も日本有数のコレクションである。
博物館の予算による列品の購入は、明治時代の博物館創設期から開始されている。考古部門の代表的所蔵品1つである、熊本県江田船山古墳出土品一括(国宝)は、館創設の翌年である1873年(明治6年)に当時の白川県(現・熊本県)から購入したものである。また、平安絵画の名品とされる普賢菩薩像(国宝)、尾形光琳作の八橋蒔絵手箱(国宝)、本阿弥光悦作の舟橋蒔絵硯箱(国宝)は、博物館が現在地の上野公園に移る以前の1878~79年(明治11~12年)に購入されたものである。
館蔵品の充実には個人所蔵家の寄贈も大きく寄与している。中でも中国書画の高島コレクション(高島菊次郎寄贈)、中国陶磁の横河コレクション(横河民輔寄贈)、中国陶磁と茶道具が中心の広田コレクション(広田松繁寄贈)、朝鮮美術の小倉コレクション(小倉武之助収集、財団法人小倉コレクション保存会寄贈)などが著名である。寄贈品ではないが、松方幸次郎(西洋美術のコレクターとして知られる、1865-1950)の浮世絵コレクションは一括して東京国立博物館に入っている。
東京国立博物館に対し大きなコレクションの一括寄贈、国宝などの名品の寄贈をした人物を列記すると以下のとおりである。
- 小倉武之助(1870-1964) 朝鮮半島で活躍した実業家。大邱(テグ)電気創立者
- 高島菊次郎(1875-1969) 日本の製紙業に貢献した実業家
- 団伊能(だんいのう、1892-1973) 団琢磨の長男。東京帝国大学助教授
- 広田松繁(1897-1973) 古美術店「壷中居」の創立者
- 松平直亮(まつだいらなおあき、1864-1940) 伯爵、貴族院議員、旧松江藩主家当主
- 松永安左エ門(1875-1971) 「電力の鬼」の異名をもつ実業家、茶人
- 三井高大(みついたかひろ、1908-1969) 三井財閥11家のうち「室町家」の当主。
- 横河民輔(1864-1945) 建築家、実業家、横河電機・横河橋梁創立者
[編集] 国宝の一覧
以下は、独立行政法人国立博物館所有、東京国立博物館保管の国宝の一覧である。(2005年7月現在87件)
[編集] 絵画
仏画
大和絵・絵巻
室町水墨画 |
近世諸派
渡来画
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[編集] 書跡
仏典
古筆
古文書
典籍
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漢籍
墨蹟
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[編集] 工芸品
刀剣以外 刀剣
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[編集] 考古資料
- 袈裟襷文銅鐸(けさだすきもん どうたく) 伝香川県出土 1箇 弥生時代
- 江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土品 熊本県出土 一括 古墳時代
- 埴輪武装男子立像 群馬県太田市出土 1躯 古墳時代
- 文禰麻呂墓(ふみのねまろぼ)出土品 一括 奈良時代(707年)
- 興福寺金堂鎮壇具 一括 奈良時代
[編集] 法隆寺献納宝物
- 絵画
- 聖徳太子絵伝 秦致貞筆 10面 絹本着色 平安時代
- 書跡
- 法隆寺献物帳 1面 奈良時代(756年)
- 細字(さいじ)法華経 1巻 唐時代(694年)
- 工芸品
- 金銅灌頂幡 1具 飛鳥時代
- 鵲尾形柄香炉(じゃくびがた えごうろ) 1柄 飛鳥時代
- 金銀鍍竜首水瓶 1口 飛鳥時代
- 海磯鏡(かいききょう) 2面 唐時代
- 金銅墨床・水注・匙 1具 奈良時代または唐時代
- 黒漆七絃琴 1張 唐時代(724年)
- 沈香木画箱(じんこう もくがはこ) 1合 奈良時代
- 竹厨子 1基 奈良時代