李簡
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李簡(りかん、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の隴西郡狄道県の県長。
[編集] 略歴
[編集] 生涯
三国志の蜀書・張嶷伝によると、隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人という。秦の名将の李信とその曾孫の前漢の名将・李広の中子(真ん中の子)の李椒(或いは李敢とも)の11代目の子孫といわれる。西涼の太祖武昭王・李暠の曾祖父とされる。
252年(延煕15年)に彼は蜀漢の張嶷と衛将軍の姜維に帰順すべく書簡を送り、その承認を得たという。
それによると、李簡の投降に疑問を抱いた尚書令・費禕と姜維に対して、人物の鑑識眼に優れていると評判のある張嶷はこの時に病に冒されていたが迷わずに「李簡がわが国に帰順する意思はまことに嘘偽りはござらん。私から見ても彼は前漢期の一本気な忠臣である李広の末裔ですから、全面的に彼を信頼するには値します。今すぐに隴西郡に侵攻すべきです」と周りに説いたので、費禕も張嶷の申すことならと納得し、姜維を副将にして翌253年に隴西郡に進攻させたという。果たして李簡は、張嶷が進言した通りに張嶷と姜維を出迎えるために城門を開いて降伏したのである。間もなく、李簡は張嶷の武将となり、かつての味方だった魏の討蜀(漢)護軍の徐質将軍を挟撃したという(このことがきっかけで徐質は裏切者の李簡を憎み、数年後に徐質は蜀漢を撃破し、殿軍を引き受けた歴戦の老将の張嶷を討ち取ったという)。
やがて、李簡は皇帝の劉禅から、爵位を賜ったという。その後の消息は不詳である。
一説では、李簡は張嶷から評価されたように、剣術を好み任侠と交際したともいわれる。