寧宗 (宋)
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寧宗(ねいそう、1168年(乾道3年) - 1224年(嘉定17年)、在位1194年(紹熙5年) - 1224年)は、南宋の第四代皇帝。第三代皇帝・光宗の第二子。諱は擴(拡)。寧宗は廟号で、諡号は法天備道純德茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝。
1194年、病弱な父が半ば強引に退位させられたため、趙汝愚と高宗の皇后であった呉氏によって擁立され皇帝となる。このとき趙汝愚に協力した韓侂冑は寧宗の皇后の大叔父であったために権力を握るようになり、ついには趙汝愚をも追い落として独裁体制に入った。また、この時に朱熹もともに追放してその学説を禁止している。その後、1197年に慶元の党禁で強引に反対派を排除するやり方に怨嗟の声は高まっていたが、寧宗は1205年(開禧元年)に韓侂冑を平章軍国事に任じてそのまま信任し続けた。それでも皇后韓氏をすでに亡くし焦っていた韓侂冑は、権力を維持するために金に対する大規模な北伐を十分な用意もないまま敢行した。やはり戦況は芳しくなく金に寝返る将軍も出る有様となり失敗した。そんななか新しく皇后となっていた楊氏の兄・楊次山と結託した史弥遠は、責任者としての韓侂冑の首と以前よりも不利な条件をもって金と講和することに成功し、韓侂冑にかわって権力の頂点に立った。結局、権臣に専横を許す状況に代わりはなかった。
寧宗には9人の息子がいたがいずれも早くに亡くなったため、弟の養子である趙竑を後継者としていた。しかし、趙竑は史弥遠の意のままにならないので、1224年、寧宗が危篤状態になると皇后を説得して、新たに趙昀を皇太子に据えた。そして寧宗が没すると帝位に就いたのである。
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