書院 (中国)
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書院(しょいん)とは、中国古代の学校の一類型。宋代以降、国家の官学に対して特に民間の私学で行われた。
書院の由来は唐代にあり、開元13年(725年)、麗正殿を集賢殿と改めて書院を置き、学士を置いて古今の経籍を校勘したり、天下の遺書を収集したりした。
貞元中、李渤は廬山白鹿洞に隠居して読書したが、南唐の時、ここに学館が置かれ、廬山国学とされた。これが宋代に白鹿洞書院と改められた。南宋の朱熹や明の王守仁がここで講学している。
宋代、政府によって書院の造成が奨励され、政府や私人が書院を創設した。白鹿洞書院(江西廬山)・応天府書院(河南商丘)・嵩陽書院(河南太室山)・岳麓書院(湖南岳麓山)は、宋の四大書院と呼ばれる。
元代にはすべて政府の管理下に置かれ科挙試験の予備校と化した。
明代には、東林書院のように政治問題を取り扱う書院があらわれ、しばしば弾圧の憂き目にあった。
清代、科挙を目的として数千ものの書院が作られたが、なかには科挙を目的とせず、学問研究の場としたものもあった。
清末、科挙が廃され、書院は学堂と改められた。これが近代、中国の大学の母体となっていった。