旭鷲山昇
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旭鷲山 昇(きょくしゅうざん のぼる、1973年3月8日 - )は、モンゴル・ウランバートル出身で大島部屋所属の元大相撲力士。最高位は小結。本名はダヴァー・バトバヤル、身長180cm、体重141kg。得意技は右四つ、上手投げ。
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[編集] 来歴
子供のころからやんちゃな性格で、社会主義下のモンゴル人民共和国において3歳ごろからチョコレート代わりに石を口に含んだり、家の内壁を食べたという逸話がある。16歳の時にナーダムの相撲少年の部に出場したが、食べるものがなく腹を空かせていたところに、4歳の幼児が食べ物をくれたことがあった。この幼児が後の白鵬であったが、両者共に記憶に刻まれた出来事でありながら、来日したものの入門先が見つからず帰国寸前の白鵬に対して旭鷲山が骨を折り、その後暫く経っても、互いにその時の相手であったことを気付かなかった。
1991年に大島親方(元大関・旭國斗雄)がモンゴルで行った新弟子公募に応募し、170人の応募者の中から旭天鵬、旭天山らととも選ばれ初のモンゴル出身力士として来日し、1991年3月場所で初土俵を踏んだ。入門当初は稽古の厳しさや日本の生活習慣に馴染めず、ともに来日したモンゴル力士6名で駐日モンゴル大使館に駆け込んでスカす。しかし、モンゴルの実家まで来た師匠・大島親方に説得された部屋に戻った。
1995年3月場所で新十両に昇進し、1996年9月場所で新入幕を果たした。幕内に上がると多彩な技で観客を沸かし、「技のデパートモンゴル支店」(“本店”は舞の海)と評された。新入幕から所要3場所で小結に昇進したが、新三役となった1997年3月場所で負け越して以来一度も三役に復帰する事はなく、2006年11月場所まで58場所連続平幕在位の史上1位の記録を持つ。
新入幕から一度も十両に陥落せず、地力があったことは間違いないが、歳を重ねるにつれ立ち合い諸手を付いての逃げ回るような攻めが目立つようになった。十両陥落が見える地位になると二桁の大勝ちを見せて一気に番付を上げ、上位で大負けした後はわずかな負け越しを続け少しずつ番付を下げていくパターンの繰り返しが多かった。
長く幕内に留まっていられた理由として、立ち合いでは激しく当たらず、敢えて相手に踏み込ませそこから形を作っていく相撲を取ることにより、激しい衝撃を避けることで肉体の消耗を免れていると、相撲解説者である舞の海は指摘している。初土俵以来の決まり手数は45を数えるとされ、大相撲界にそれまでなかったモンゴル相撲を持ち込み、2000年に新たに15の決まり手が追加された一因となった。
2003年7月場所、同郷の後輩である横綱・朝青龍との一番で横綱が旭鷲山のマゲを掴み反則で勝ち星を得たが、協会は金星と認めないことを発表した。取組後の風呂場で両者は激しい口論となり、居合わせた魁皇が割って入って止めたという。怒りが収まらない朝青龍は、旭鷲山の車のサイドミラーを壊して弁償する騒動にまで発展した。両者は2003年5月場所の対戦でも、土俵際で逆転負けした朝青龍が物言いを要求する態度を見せて物議をかもしだしている。この時には大々的に確執が伝えられたが、後に報道陣の前で和解をした。
旭鷲山はモンゴル出身力士の先駆者であり、多くのモンゴル人を各相撲部屋に紹介し入門させた。後早稲田大学に入学し、ここで様々な示唆を受けたことによりベテランの域に入ってなお成長を見せていた。
基金を設立し各種の援助をして、国民に奉仕したことにより母国では英雄であり、朝青龍を凌ぐ人気があるとも言われる。
近年は体調がすぐれず、満足のいく相撲を取れなくなっていた。2006年、11月場所前に病院で診察を受けたところ虚血性心疾患と診断され、医師から「これ以上相撲を取り続けると命にかかわる」と言われた。このため、初日に敗れた後、大島親方と相談。11月13日(2日目)、相撲協会に引退届を提出し、引退した。旭天鵬は将来親方になり後進を指導することを目指すため日本国籍を取得し帰化したが、旭鷲山は帰化しなかったため、規定により相撲協会に残ることはできない。今後は永住権を返上して帰国し、政治家に転身する予定。
[編集] 略歴
- 1992年3月 - 初土俵
- 1995年3月 - 新十両
- 1996年9月 - 新入幕
- 1997年3月 - 新小結
- 2000年 - 公益財団「旭鷲山発展基金」設立
- 2001年8月 - 日本国の永住権を取得
- 2004年4月 - 早稲田大学人間科学部通信教育課程入学
- 2006年11月 - 引退
[編集] エピソード
- 先輩が来日直後の旭鷲山を風俗店に連れて行き、何の店かわからず、突然の行為に驚いた旭鷲山が裸で店を飛び出した。
- 来日前に、日本は科学が進んでいて、声をかけるだけで物が出ると聞かされ、ジュースの自動販売機に一日中、「よろしくお願いします」と声をかけお辞儀をしていた。
- プロ野球・千葉ロッテマリーンズのファンである。
- グラフィックデザイナーの浅葉克己によって旭鷲山の廻し姿を描いた「日本・モンゴル友好記念」切手が、2001年にモンゴルから発行された。
- 「週刊ポスト」の八百長記事に対し、小学館を名誉棄損で訴えた。小学館側からの200万円での和解金申し入れを受諾し、チンギス・ハーンに勝訴報告をした。
[編集] 書籍
- 『自伝旭鷲山-大草原から土俵へ』(1997年3月、ベースボール・マガジン社)
- 『土俵の上から見た不思議なニッポン人』(2000年5月、扶桑社)
- 「モンゴル流、俺の錦の飾り方」(1998年11月、トップランナーVol.7)
[編集] 主な成績
- 通算成績:560勝601敗2休(89場所)
- 幕内成績:408勝507敗2休
- 幕内在位:62場所
- 三役在位:1場所(小結1場所)
[編集] 三賞・金星
- 三賞:5回
- 殊勲賞:1回(2003年5月場所)
- 敢闘賞:2回(2005年5月場所、2006年3月場所)
- 技能賞:2回(1997年1月場所、2002年5月場所)
- 金星:5個(曙1個、若乃花2個、武蔵丸1個、朝青龍1個)
[編集] 各段優勝
- 十両優勝:2回(1995年7月場所、1996年3月場所)
- 幕下優勝:1回(1996年3月場所)