斯波義寛
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斯波 義寛(しば よしとお、康正3年(1457年) - 没年不詳)は室町時代後期の守護大名。斯波義敏の嫡男。幼名は松王丸。初名義良(よしすけ)。名は「よしひろ」とも読む。母は家女房。弟に斯波寛元、斯波義雄ら。妻は一色義直の娘。子は斯波義達。官途は従四位下、治部大輔、左兵衛佐。越前、尾張、遠江守護。
長禄3年(1459年)8月、父義敏が将軍足利義政の怒りに触れ、3ヶ国の守護職を奪われ大内氏の許へ隠退すると、越前守護代甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳で斯波氏家督と3ヶ国守護職を継ぐ。
しかし、寛正2年(1461年)9月、朝倉孝景らの工作により義政から廃嫡を命ぜられ、相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられる。
文正元年(1466年)7月、父義敏の復権に伴い還俗、応仁の乱では東軍に属し、祖父斯波持種、父義敏とともに越前へ下向、同国の西軍斯波義廉方を攻めている。
文明4年(1472年)12月に元服、義良と名乗る。文明7年(1475年)、新将軍足利義尚に謁見、同年、遠江守護代となった甲斐氏とともに遠江に下向し、同国侵攻を続けていた今川義忠の軍勢と対陣する。 翌年の義忠敗死後は朝倉孝景が平定したばかりの越前に目を向け、文明11年(1479年)閏9月4日、叔父斯波義孝、甲斐氏、二宮氏らを引き連れて京都から越前に向けて進発、文明13年(1481年)まで越前の諸所で合戦を繰り広げる。しかし、同年9月15日の合戦で朝倉方に完敗し、加賀国に没落、越前復旧は失敗する。
文明15年(1483年)3月、尾張国清洲城に入城、本拠地と定める。文明17年(1485年)、名を義寛と改名、同年出家した父義敏の跡を継いで、尾張・遠江守護となる。
長享元年(1487年)の足利義尚による近江国六角高頼攻めに8000の兵を率いて参陣、幕府に忠誠の態度を示して越前回復を訴えるが、要求は退けられる。延徳3年(1491年)の足利義材による六角高頼攻めにも大軍を率いて参陣、重ねて越前回復を訴える。この時は義材の越前進発が噂になるなど、義寛に有利に事は進んだが、結局幕府は朝倉氏の軍事力を怖れて、越前回復はならなかった。
明応2年(1493年)の義材の河内国畠山基家攻めにも義寛は従軍するが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)に遭い、義材との親密さが災いして幕府内で孤立することとなる。翌年からは細川政元と提携している今川氏親が遠江に侵攻を開始、義寛はこれに対処しようとするが、明応4年(1494年)に隣国美濃国で舟田合戦が勃発、尾張国内がこれに巻き込まれ、遠江出陣は不可能な状態となる。
尾張国内の政情が安定化した明応9年(1500年)頃から義寛は戦略を変更、義材派から新将軍足利義高派に切り替え、細川政元の支持を得、信濃国小笠原氏、関東管領上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏を東西から挟撃しようと目論む。文亀元年(1501年)、義寛は弟寛元、義雄を遠江に派遣し攻勢をかける。しかし、この直後に没したらしく史料に表れなくなる。