常高院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
常高院(じょうこういん、永禄13年〔1570年〕? - 寛永10年8月27日〔1633年9月30日〕)は、戦国時代から江戸時代の女性で、京極高次の正室である。本名は初(はつ)で、一般に「お初」という呼び名で知られる。父は浅井長政、母は織田信秀の娘お市。豊臣秀吉の側室となった淀殿は姉、徳川秀忠の正室となったお江(於江与)は妹に当たる。実子は無く、於江与の娘初姫(父は徳川秀忠。後の京極忠高室興安院)や夫高次の妹、松雲院の娘氏家古奈(父は氏家行広)らを養女とし、側室吉原(山田おな・お崎)に生まれた忠高や高政(忠高とは異腹)を養育する。
近江国小谷(現・滋賀県湖北町)に生まれる。父の長政は母の兄・信長と交戦し、小谷城は落城して父・長政は自害。以降は織田家の下で育てられたが、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれたため、母のお市は織田家の家臣・柴田勝家と再婚し、越前国北ノ庄城へ移る。勝家は信長の後継者を巡る清洲会議がきっかけで羽柴秀吉と対立していたが、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の合戦で勝家は秀吉に破れ、北ノ庄城の落城時にお市は勝家とともに自害した。初らは秀吉に保護され、1587年(天正15年)に京極高次と結婚する。秀吉の死後に五奉行の石田三成と五大老の徳川家康が対立し、1600年(慶長5年)に三成らが挙兵すると、京極家は一時三成方に付くが、関ヶ原の戦いでは大津城に籠城して東軍に属する。
1609年(慶長14年)、夫の高次が亡くなると剃髪出家して常高院と号す。この頃から甥の秀頼と家康の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣(羽柴)方の使者として仲介に奔走し、両家の和議実現に尽力した。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘(後の天秀尼)の助命を家康に嘆願したとも言われている。1633年(寛永10年)に江戸で死去、享年64。
墓所は福井県小浜市の常高寺。墓所は、常高院永昌尼公の石塔を中心に、尼公に仕えていた尼僧たちの石塔が会席する形をとって並んでいる。同寺には常高院の肖像画も伝わっている。