崇源院
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崇源院(すうげんいん、天正元年(1573年) - 寛永3年9月15日(1626年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性で、最初の夫は豊臣秀勝、後、死別。再び、江戸幕府2代将軍徳川秀忠に再嫁する、秀忠の正室である。
浅井長政の三女、母は織田信秀の娘・お市(小谷の方)。長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉の常高院(初)は京極高次正室。3代将軍家光の生母。名は一般にお江(おごう、小督とも)もしくはお江与(おえよ)として知られる。従一位を賜った際に、達子(さとこ)の名を受けた。法名は「崇源院昌誉和興仁清」。生年には異説もある。織田信長の姪。
[編集] 生涯
浅井長政の三女として近江国小谷(滋賀県湖北町)に生まれる。父の長政は母の兄・信長と対立し、1573年(天正元)に小谷城が落城し父・長政が自刃すると母・お市とともに城を逃れ信長に助けられた。
1582年(天正10)の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に殺された後、母・お市は伯父・信長の家臣だった柴田勝家と再婚して越前国北ノ庄城へ移る。義父・勝家は清洲会議で織田家の後継を巡り羽柴秀吉(後に豊臣姓)と対立し、1583年(天正11)の賤ヶ岳の戦いの後に北ノ庄城が落城し勝家の自殺後は秀吉の元へ保護された。
1584年(天正12)には母の姉の子・佐治一成へ嫁ぐ。だが一成が伯父・信長の跡継ぎのことで秀吉と不和になった母の甥・織田信雄を擁立した徳川家康に味方したため(小牧・長久手の戦い)秀吉の怒りに触れた一成は秀吉から所領を没収されさらに離縁させられた。 一成との間に二子をもうけたとも言うが、離縁時期によっては子はいなかったともされる。
1586年(天正14)には豊臣秀吉の甥・秀勝(小吉秀勝。関白秀次弟)の元へ嫁ぎ、完子(後に九条忠栄に嫁ぐ)を産むが、文禄の役で秀勝は死去。
文禄4年(1595年)9月17日、家康の子の秀忠に嫁し(再々婚)、家光や忠長、千姫、珠姫(子々姫)、勝姫、初姫、和子(後水尾天皇中宮の東福門院)を産む。なお、前夫・豊臣秀勝との子である完子は長姉・淀殿の猶子として引き取られ、徳川家には連れてきていない。 親族の死、政略や実家の跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、幸せな生活を過ごした。お江与は、秀忠より年上だったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらず、お江与と結婚して以降側室を1人ももてなかった。 寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。このとき秀忠・家光父子と忠長は上洛中であった。 寛永3年(1626年)11月28日、従一位を追贈される。
死後、お江与は子の家光によって東京都港区にある増上寺に埋葬された。 なお、お江与は身分が高かったのにもかかわらず、火葬にされている。これは、お江与の遺体に蕁麻疹ができていたため、生前に毒を飲まされていたという疑いがかかり、それを隠そうとしてやったともいわれている(実際、文献でも、お江与の死因については触れられていない)。 毒を飲ませたのは春日局だともいわれるが定かではない。
戦後、鈴木尚が中心となって行われた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。それによると、火葬にされており、生前の崇源院はかなり小柄で華奢な美女であったようである。