山内溥
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山内 溥(やまうち ひろし、1927年11月7日 - )は、京都府京都市出身の実業家。任天堂創業家出身で3代目社長を勤めた。初代社長である山内房治郎の曾孫。早稲田大学第二法学部中退。本名は山内博。50歳のときに「溥」へと改名する。当時、山内博という同姓同名の人が多数いたため、としているが、諸説がある。
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[編集] 人物
1949年、祖父山内積良の後を継ぎ、任天堂代表取締役社長に就任。2002年に50年来務めた社長職を退き、2005年6月まで同社取締役相談役、以後取締役からも退任し同社相談役。
京都にて花札、カードゲームの製造を行う、比較的地味な企業であった任天堂を、幾度とない倒産の危機を乗り越え、テレビゲーム等の展開により世界的企業へ成長させた。
独特の経営哲学で知られ、ワンマン経営者の典型として非常に有名であったが、同時に社員の殆ど全員がそれで良しとしていたほど社員から信頼されていた経営者でもあった。独断的手法については評価が分かれる部分があるものの「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に代表される一連のテレビゲームや「ウルトラハンド」「ゲーム&ウオッチ」等の新規市場開拓型のヒット商品については山内の決断により成功したことは知られている。
[編集] 社長業
本来は社長職を次ぐはずの山内鹿之丞が出奔してしまったため、早稲田大学第二法学部を4年で中退し、22歳の若さで社長に就いた。その際、「こんな若造に従うことは出来ない」と、100人あまりのストライキにあっている。そのような事態にもめげず、溥は世界初のプラスチック製トランプを発明、「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」、「簡単な説明書を同梱する」と言った手法をとることで、任天堂のトランプは爆発的に売れ、一躍業界のトップに躍り出る。
しかし、1958年にアメリカ最大手のトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場を見学した山内溥はその規模の小ささに失望、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、経営規模拡大のため多角化経営を始める。しかし、ベビーカーやインスタントライス、ディズニーフリッカー(ふりかけ)、さらにはダイヤタクシー(後に京都名鉄タクシーを経て現在は南ヤサカ交通)、ホテル経営など、手当たりしだいに進出してことごとく失敗、1960年代後半から任天堂は倒産の危機に直面した。その経験から溥は考えを改め、70年代以降は本業である玩具販売に専念、79年には世界初の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し大ヒットをおさめる。83年、その利益を使って開発した「ファミリーコンピュータ」を発売、その歴史的大ヒットにより、娯楽企業として今日の地位を築き上げた。
インベーダーゲームブームの時にスペースインベーダーを模倣したアーケードゲームを販売し、テレビのインタビューで「遊びにパテント無い」旨の発言する。 当時はソフトウェアの著作物としての解釈が決まっていない時期であるが、当時も開き直った道義的に問題有る発言と受け取られている。 また、後に任天堂が起こした数々の著作権絡みの訴訟を鑑みると大変皮肉である。
2002年、社長業の引退が発表された時、任天堂の株価は一気に下落した。優良企業ランキングで一位を何度も取得し、日本を代表する無借金超優良企業へと築き上げた山内の手腕を最大限に評価した結果とも言える。そして、大株主であると同時に三代続いた一族経営会社の社長でありながら、同社に勤める自分の息子を次期社長に指名せず、HAL研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲る。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間みっちりと経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。また、会社の意思決定は社長への一任ではなく、「これからの時代は~」と言って、取締役会での集団意思決定へと移行を促した。
次世代機「NINTENDO64」の開発の際、ロムカセットに固執したことが、家庭用ゲーム機市場シェア首位陥落の主因となったといわれている。しかしこれは当時主流になりつつあったCD-ROMが、ゲーム内容を読み込むのに多大なロード時間を必要とし、さらに物理的な強度に欠けると考えられたことから、遊び手がストレスを感じることを懸念したためであると言っているが、ハードのコスト増を嫌ったのが一番の大きい理由と推測される。
しかし、山内任天堂が発売した最後の家庭用ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」では、本体の機能をゲーム機能1つに絞り、さらにディスクも松下電器産業の協力の下、直径8センチの独自仕様にすることで、ディスクメディアでありながらロード時間を大幅に削減することに成功し、これ以降任天堂はロムカセットに執着することはなくなったといえる。2006年発売予定の「Wii」では、12cmの光ディスクが使われることになっている。
携帯型ゲーム機では強度の問題からロムカセットの採用を続けており、これは次代社長の岩田聡が発表した携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」でも一貫して続いている(正確にはロムカセットではなく、独自規格のフラッシュメモリーであるが、回転メディアではない点で本質的には同じである)。
また、2002年1月に「ファンドキュー」というベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立している。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携」、「開発期間は一年」、「任天堂による審査」など条件はあったが、無担保で融資を行うという零細ベンチャーには魅力あるものであり、全額山内のポケットマネーで行われた。
[編集] 投資家としての山内溥
米国大リーグ球団シアトル・マリナーズの経営危機に際し、「長い間米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」のために、ポケットマネーでマリナーズ(を運営する会社の株式)を購入した個人スポンサーとしても知られ、任天堂社長を退いた後も筆頭オーナーに名を連ねていた(2004年11月以降は任天堂がそれらを買い取り、シアトル・マリナーズを運営するThe Baseball Club of Seattleは任天堂の持分法適用会社となっている)。
社長をしていた当時、マリナーズの日本人大リーガーの佐々木主浩やイチローが、任天堂のコマーシャルに登場したこともある。なお、イチローが米大リーグへ挑戦を表明した時、「何が何でも獲れ」と厳命を下している。ちなみに山内がマリナーズに対して口出ししたのはこれっきりであり、基本的には金だけ出し、口を出すことはない。それどころか「飛行機が嫌いだから」という理由でマリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も行ったことがない。
小倉百人一首をテーマとして、京都文化や京都観光の発展に貢献するために設立された「財団法人小倉百人一首文化財団」の理事長を務めている。同文化財団の建築する百人一首のテーマパーク「時雨殿」の建設の際には、その建築費用21億円すべてを個人で負担した。このことからも、山内がビデオゲームだけではなく伝統娯楽にも深い愛着を持っていることが伺える。
2006年2月、京都市左京区の京都大学医学部附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約70億円の個人資産を寄附。京大ではこの寄附金により地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートル・病床約300の新病棟を建設する(2007年2月着工予定)。
[編集] 家族
メディアの露出を避けているのもあり、家族構成は不透明だが任天堂社内に山内溥の長男が在籍している。その長男は任天堂作品の映画スタッフとして名前が露出している。以下はその長男のプロフィールである。
任天堂・広報室企画部部長として在籍中。大学を卒業後、85年に電通に入社。その後、10年を経て任天堂に入社し任天堂のアメリカ支社に勤務。のち、本社に戻り、同社広報企画室企画部課長。2000年6月に部長代理。2001年より現職。映画「ポケットモンスター」のアソシエトプロデューサーを担当し、最近はスーパーバイザーとして参加。山内一族の後継者ではあるが、今現在も取締役の地位には無い。
[編集] その他
趣味の囲碁は六段の腕前を持つ。山内は名目上は六段であるが、実際はもっと強いのではないかといわれている。2005年9月30日には、囲碁界への貢献が認められ、5年間空席だった日本棋院関西総本部長に就任した。
ちなみに、「任天堂が囲碁ゲームを出す際は、ゲームのCPU(思考ルーチン)が山内と勝負し、それに勝たなければならない」という暗黙のルールがあり、任天堂はまだ一度も囲碁ゲームを発売できていない(と言っても、任天堂に技術がないわけではなく、2006年現在で最も強いとされるコンピュータ囲碁プログラムでも人間の初段というレベルである。しかもそれは甘く見ての話。)。「だれでもアソビ大全」の中にも、将棋やチェスや五目並べはあるものの囲碁は収録されていないなど、山内はこのことについては非常に厳しいようだ(サードパーティ製の囲碁ゲームはある)。
未だ社長だった頃、強烈なカリスマ性にワンマン経営、そして何よりその風貌と歯に衣着せぬ物言いから、インターネット上では「社長」ならぬ「組長」と呼ばれ、当時広報室長だった同じく強面の今西絋史(現同社顧問)と共に恐れられた。
なお山内は「ゴニンカントランプ協会」の名誉名人も務めている。
ちなみにみうらじゅんの著書「日本崖っぷち大賞」(山田五郎、泉麻人、安斎肇と毎回とあるテーマについて常識と非常識の間の崖っぷちは何かというものを決める内容。1998年7月25日発行)の第8回のテーマ「任天堂」において、山田五郎の「社長の名前が読めないんだよね。山内ナントカ氏というんだけど…」という発言がきっかけになり見事(?)「社長の名前が読めない殿」が第8回の日本崖っぷち大賞に輝いた。