天手長男神社
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天手長男神社 | |
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所在地 | 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730 |
位置 | -- |
主祭神 | 天忍穂耳尊 天手力男命 天鈿女命 |
社格等 | 式内社(名神大)・壱岐国一宮・村社 |
創建 | -- |
本殿の様式 | -- |
例祭 | -- |
主な神事 | -- |
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は、長崎県壱岐市郷ノ浦町にある神社である。旧社格は村社。
式内名神大社、壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが、異説がある(後述)。
[編集] 祭神
天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命を主祭神とする。また、式内名神大社の「天手長比賣神社」、式内小社の「物部布都神社」を合祀している。天手長比賣神社には栲幡千々姫尊・稚日女尊・木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命、物部布都神社には布都主命が祀られている。ただし、天手長男神社が合祀したとする手長比賣神社・物部布都神社は、延喜式神名帳記載の本来の手長比賣神社・物部布都神社ではないとする説がある。
[編集] 社名
『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これ上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(宗像の沖ノ島)に立てたという。天手長男・天手長比賣の社名はこの「御手長」に由来するという。
[編集] 歴史
天手長男神社は壱岐国の宗廟・一宮とされ崇敬を受けていたが、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。
現在の天手長男神社は、それまで「若宮」と呼ばれていた式外社の小祠を、江戸時代の平戸藩の国学者・橘三喜が名神大社・天手長男神社に比定したものである。三喜は、「たながお(たなかを)」という社名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を堀り出し、石社を作って祀った。松浦藩主の命により元禄元年(1688年)に社殿が作られた。
なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている(橘三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと見られる)。
合祀されている天手長比賣神社も橘三喜の査定によるものであり、本来の天手長比賣神社の所在地は不明である。物部布都神社も、「田中触が物部村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年の研究では渡良浦の國津神社が本来の物部布都神社であったとされている。