司馬欣
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司馬 欣(しば きん、生年不詳 - 紀元前205年または紀元前203年)は、秦の将軍で官職は長史。そのために長史欣とも呼ばれた。
かつて、彼は部下の獄吏の曹咎(後の楚将)の進言で、犯罪を犯した項羽の叔父である項梁を匿ったことがあるという。紀元前209年、趙高の命で章邯の副将として従軍し、陳勝・呉広の乱平定などに功があったが、後に章邯の命で趙高に援軍要請のために都の咸陽に向かった。だが、そこで旧部下から趙高が自分達を処刑すると囁きかけられたため、慌てて裏街道から逃げ出した。やがて章邯に対して項羽に帰順すべく説いて西楚に降伏し、塞(賽)王に封じられた。紀元前206年、劉邦によって上将軍に任命された韓信に攻められ翟王・董翳と共に漢に降る。だが、翌紀元前205年の睢水の戦いで董翳と共に再び楚に降ったが、項羽に許されず司馬欣・董翳はまとめて処刑された。
一方紀元前203年まで司馬欣・董翳は在命したとの異説もある。こちらの説では睢水の戦い後、再び楚に降るを許され、項羽から旧部下の曹咎と共に成皋を守るよう命じられた。しかし劉邦の軍に破れ、曹咎・董翳と共に汜水の辺りで自刎したとされている。
ちなみに殷王(或いは同音の“晋”王とも)の司馬卭(西晋を築いた司馬懿の遠祖)は同じ司馬姓ではあるが、司馬欣自身は河内司馬氏の系統ではない可能性が高いと見られる。
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