古人類学
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古人類学(こじんるいがく、Paleoanthropology)は形質人類学(自然人類学)から派生した学問領域で、特に霊長目内からヒト(ホモ・サピエンス)への進化の系譜の過程の解明を中心に、その過程にあったと思われるヒト科の生態を研究する学問。広い意味では古生物学に属するが、古生物学と考古学の隙間を埋める学問ともいえる。
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[編集] 歴史
[編集] ラマピテクスの発見
1932年、インドでラマピテクスの下顎の骨が発見された。特徴として犬歯がなく、ゴリラやチンパンジーのような顎の突出が無かったため、類人猿からヒトへとつながる猿人の発見と考えられた。調査の結果、ラマピテクスの生息年代は1400万年前と判断され、この時期がヒトと他の類人猿との分岐と考えられるようになった。しかし1982年に完全な頭骨が新たに発見されオランウータンの系統であることが明らかになり、また分子系統学の発達によりヒトと類人猿、特にチンパンジーとの分岐年代は600万年前と考えられるようになった。
[編集] アウストラロピテクスの発見
1924年に、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石(アウストラロピテクス・アフリカヌス)を発見する。ダートはヒトと類人猿の中間である猿人の化石であると主張したが、発表当時は否定された。しかし、1930年代から1940年代にかけてロバート・ブルームらによりアウストラロピテクスの化石が発見されると、アウストラロピテクスがヒトと類人猿の中間に位置すると考えられるようになった。
アウストラロピテクス・アフリカヌスが認知されると、ラマピテクス→アウストラロピテクスのラインでヒトへと進化していったという仮説が主流となっていった。しかしこの仮説での進化系譜ではアウストラロピテクス・アフリカヌスとヒトと間が極めて曖昧であった。
同じく南アフリカでアウストラロピテクス・ロブストス(パラントロプス・ロブストス)が発見された。これはアフリカヌスより新しい150万年から200万年前の地層から見つかった。ところがロブストスの頭蓋骨は大きく左右に張り出し、頭のてっぺんには筋肉を支える突起があったため、ヒトと大きく離れてしまう。
[編集] ホモ・ハビリスの発見
1964年、タンザニアでホモ・ハビリスの化石が発見される。脳の容量は650mlとアウストラロピテクス属より大きくヒトに近い形態であった。生息時期は150万年前から200万年前程度と推定されたが、化石の年代判定に疑問が持たれ、ラマピテクス→アウストラロピテクス祖先説は崩れることは無かった。
しかし、1972年にケニアで脳容量750mlを持つホモ・ハビリスが発見される。化石の年代判定も200万年前と推定された。これでラマピテクス→アウストラロピテクス祖先説は大きく揺らぐことになる。
[編集] 分子時計
1967年、ビンセント・サリッチとアラン・ウィルソンが抗原たんぱく質の分子配列の差からヒトやゴリラ、チンパンジーなどとの分子配列の差異を求め、分子が進化の過程で起こる突然変異で並び陣が変わる確率から生物間の分岐時代を推定する分子時計を発表した。分子時計によるとヒトとチンパンジーとの分岐が起きたのは400万年まえから500万年前という、ラマピテクスのいた1400万年前より遥かに最近の出来事であるとなる。
さらに、ラマピテクスの研究が進むとラマピテクスはヒトの祖先ではなくオランウータンの祖先であるという可能性が強まった。
[編集] アウストラロピテクス・アファレンシスの発見
1974年、エチオピアでアウストラロピテクス・アファレンシスの化石が発見された。しかも頭蓋骨だけでなく全身の骨の約40%程度が発見された。骨格からアファレンシスが直立二足歩行が可能であり、骨盤の形がヒトとチンパンジーの中間であると確認された。またアファレンシスは約400万年前の地層から見つかり、アフリカヌスより古い物であることが分かった。
これを受けて現在では、このアファレンシスの系統からアフリカヌス - ロブストスの系列とホモ・ハビリスの系統に分かれ、ホモ・ハビリス系統がヒトへと繋がっているという考えが主流となっている。
[編集] ミトコンドリア・イブ
1981年、イギリスのフレデリック・サンガーらは、ヒトのミトコンドリアDNA(mt-DNA)の配列パターンを完全に決定した。彼らはミトコンドリアDNAから分子時計を求めたが、やはりヒトとチンパンジーの分岐を400万年前程度と認めた。
1987年、アメリカのアラン・ウィルソンは更にヨーロッパ、アフリカ、アジア、オーストラリア、アメリカの147人のミトコンドリアDNAを使って調査を行った結果を公表した。この結果は、すべて14万年前から29万年前のアフリカにいた女性ミトコンドリア・イブの子孫であるという衝撃的なものであった。これはアフリカ人同士の配列が一番遠く、アフリカから離れるにつれて配列が近くなっていくことが解った。これにより現生のヒトはアフリカで発生し、世界各地に進出していったというアフリカ単一起源説が提唱され、他の遺伝子研究報告や化石の発見と相まって有力視されるようになっていく。
[編集] アウストラロピテクス・アファレンシス以前
分子時計によると、ヒト科の動物が分岐したのは約500万年前から700万年前と推定している。アウストラロピテクス・アファレンシス以前の化石が長い間見つかっていなかったため400万年前までの期間はミッシング・リンクと呼ばれていた。
しかし、1990年代にはいるとミッシング・リンクを埋める化石が発見されるようになった。
1992年から1993年にかけて日本とアメリカの調査隊が、エチオピアでアルディピテクス・ラミダスを発見。約440万年前のものだったが、その後の調査で、約580万年前のラミダスの化石も見つかる。
さらに、2000年12月4日にフランスのブリジット・セヌらがケニアのツゲンヒルで約600万年前の猿人化石を発見。これはオロリン・ツゲネンシスと名づけられた。オロリンとはスワヒリ語で最初のヒトという意味。
[編集] 現在論じられている人類進化説
[編集] アフリカサバンナ起源説
現在もっとも支持されている説。分子時計の解析からも有力であるとされている。
約1000万年前までアフリカ大陸は、広大な熱帯雨林に覆われていた。しかし同時期から、ヒマラヤ山脈が造山活動を活発化しはじめた。ヒマラヤ山脈にぶつかった風は上昇して、アフリカ北部に乾燥した空気を運ぶようになった。このためサハラ砂漠が形成されるようになった。また、グレート・リフト・バレー(大地溝帯)がアフリカ東部に形成され、インド洋から吹き込む湿った風を遮断するようになった。これにより、熱帯雨林が急速にサバンナ化を始めた。
サバンナ化は、類人猿の主たる食糧である果実を提供する広葉樹の数が激減した。このため、果実を得るために木から木へ地面に一度下りて移動する必要性に迫られた。
[編集] 多地域人類進化説
北京原人やジャワ原人の存在を根拠に、アフリカで進化した原人がそのまま他の大陸へ移動。そこで、ヒト(新人)へと各地で進化を遂げたという説。
サバンナ起源説は、原人や旧人の段階でアフリカ大陸をでる種が現れたが、その都度絶滅し現在の新人が再進出したと唱える。これに対し、多地域人類進化説はアフリカで進化した新人と他地域の原人の交配が行われて、ヒトが進化したと唱えている。
[編集] 水生類人猿説
ヒトの体毛が頭部を除いて極端に少ないこと、体脂肪が多いことなどの水棲ほ乳類との共通点に着目し、ヒトに進化した猿人(または類人猿)は水辺を生息圏に半水棲生活をしていたとする仮説。詳しくは水生類人猿説。