士会
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士会(しかい、紀元前661-?)は中国春秋時代の晋の政治家、将軍。士蔿の孫で、成伯の子。随と范を封地としたので随会、または范会。士季、随季などとも。謚は武。范武子とも呼ばれる。晋史上最高の宰相と謳われる。後に晋では六卿と呼ばれる有力貴族が台頭するが、その内の一つ、范氏の祖となった。(六卿の残りの5家は、知氏、中行氏、趙氏、魏氏、韓氏)
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[編集] 士会の登場
城濮の戦いの後に晋軍が帰還するとき、文公に車右に指名された。
襄公の死後に、正卿趙盾の命によって秦にいた公子雍を新たな晋君として迎えるために、卿の先蔑とともに秦に向かったが、士会たちが秦にいる間に晋では襄公の子の夷皋を立てる動きが強くなり、士会たちは急遽晋へと呼び戻され、趙盾も心変わりして夷皋を立てて霊公とした。 何も知らずに晋へとやってきた公子雍を趙盾は令狐にて攻撃し、士会はこれに怒って秦へと亡命した。 士会は3年間秦に留まり秦康公に仕えたが、同じく晋から亡命してきた先蔑には一度も会わなかった。周囲の人は士会に同郷の先蔑に会うように勧めたが、士会は「わたしは先蔑と罪を同じくしたが、先蔑に義を見たわけではない」と答えた。大夫にすぎない士会が正卿(宰相)の趙盾に直言するのは僭越にあたるが、卿(大臣)の先蔑にはその資格があるにも関わらず、趙盾になにも言わず形だけの義理立てをしたと士会はみたのである。
[編集] 秦での亡命時代
のちに令狐の役での恨みを晴らすため、秦は晋に向けて出兵し、晋もこれを防ぐために軍を発した。 両軍は睨みあって膠着状態に入り、晋軍は砦を築いて守りを固めた。秦康公が士会に作戦を尋ねたところ、士会は「この計略は趙盾をたすけて臾駢が立てたものでしょう。また趙穿というものは晋君に寵愛されていますが、年若く、軍事を知らず、勇を好みますが狂ったところがあり、臾駢が重く用いられているのを恨んでおります。軽鋭の兵を趙穿の陣に当てれば趙穿をおびき出せるでしょう。」と答えた。果たして趙穿はおびき出され、趙穿を捕らえられることを恐れた趙盾は全軍に突撃を命じた。両軍に勝敗はつかず、ともに軍を引き上げたが、秦軍は再び晋に侵略して瑕を攻めた。
度重なる秦の侵略を深刻にうけとめた晋の趙盾は六卿を集めて諮って言った。「随会(士会)は秦におり、賈季(狐射姑)は狄にいて、そのため毎日のように国難がやってくる。どうしたらよいか」 荀林父は「賈季を戻しましょう。かれは国外の事情に通じており、物事を処理する才能があり、そのうえ殊勲者の子です」と言ったが、郤缺は「賈季は謀反人です。その罪は重い。随会を戻しましょう。かれは身分は卑しくとも恥をわきまえており、柔順でありながら人に唆されて不義を為すことが無く、その智謀は国の役に立つ」と言ったので、趙盾は士会を戻すことに決めた。
趙盾と郤缺は謀って魏寿余に晋に背いたふりをさせて秦に送り込み、康公に秦に帰服したいと言わせた。康公はこれを聞き入れた。 魏寿余は秦の役所で士会をみつけると、その足を踏みつけたので、士会は晋になんらかの密謀があることを知った。魏寿余は康公に「元は晋人で、晋の役人と話せる人間を出してください。わたしはその人と先発します」と言ったので康公は士会を遣わそうとした。士会は辞退して「晋人には信義がありません。もし魏寿余が約束を破って魏を秦に明け渡さなかったなら、わたしは晋で殺され、わたしの妻子は秦で殺され、君にとっても利がないでしょう」と言ったが、康公は「そうなったとしても、神に誓って妻子を晋に帰そう」と言ったので、士会は出発した。 士会の一行が晋に入ると、魏の人々は士会の帰還を知って歓声をあげて士会を迎え、士会は晋へ帰った。康公は約束どおり妻子を晋へと返したが、このとき士氏の一族で秦に残った人々もいた。かれらはこの後に劉氏と呼ばれることになる。
[編集] 晋の大臣として
士会は帰国後、たびたび暴虐な霊公を諫めたが霊公は聞き入れず、結局霊公は趙盾を追放しようとして趙穿に殺された。 晋は周の王都より公子黒臀を迎えて成公とし、同時に趙盾は引退して荀林父が正卿となった。士会はたびたび南方から北上してくる楚の荘王の軍を撃退し、北から侵略してくる狄を抑えて活躍した。
[編集] 邲の戦い
成公が死に、景公の代になると、楚が鄭を侵したので、鄭が晋に援軍を要請してきた。正卿の荀林父は度重なる鄭の面従背反を知り抜いていたので、援軍を送らずに放っておけばすぐに鄭は楚に降伏するだろうとみて、これを退けた。しかし、鄭はなかなか陥落せず、晋の大夫たちの間に鄭を救うべきだとの声が高まったので、荀林父は援軍を出すことにした。だが、晋軍が鄭に到着すると、鄭は楚に降伏した後だった。 中軍の将の荀林父が退却しようとすると、上軍の将の士会は「よろしい。戦いは敵の隙を突いて動くもの。徳・刑・政・事・典・礼の6つが正しく行われている楚に敵対してはなりません」と言ったが、中軍の佐の先穀が合戦を望んだので、結局戦うことになった。 しかし、荀林父はなおも和睦しようとして魏錡と趙旃を送った。 これを見た上軍の佐の郤克は「二憾が行った。防備を整えておかないと楚に敗れる」と言ったが先穀は「わが軍には戦うか退くかの決定的な命令がない。どれほど防備を篤くしても無駄だ」と言った。士会はこれを聞いて「防備を整えておくのは良いことだ。備えがあればもし楚軍が悪意をもって攻めてきても破れない。諸侯会同の際に、護衛の兵を去らせないのは警戒のためだ」と言って先穀に用心を説いた。 そこで士会は上軍大夫の鞏朔と韓穿に命じて敖山の麓の七ヵ所に伏兵を置いて楚軍の侵攻に備えた。はたして楚軍は晋軍に攻め込み、中軍と下軍は壊滅したが、士会の率いる上軍は動揺せず、一兵も損じることなく退却した。 晋軍の被害は凄まじく、壊滅した晋軍が退却のときに河を渡るも船の数が足りず、1つの船に多くの兵が群がったので先に船に乗れた兵は転覆を避けるために船縁をつかんだ兵の指を切り捨てた。このため春秋左氏伝においてこの状況を「舟中の指掬す可し。」と描写された。この戦いを邲の戦いといい、これ以降天下の覇権は晋から楚へと移った。
帰国後、荀林父は敗軍の責を負い、景公に死を乞うたが、士会は荀林父を救解して言った。 「むかし文公が城濮の戦いで勝った後、喜ばなかったので家臣の一人がそのことを訊ねると、文公は、戦いには勝ったが敵将の子玉を逃してしまった。猫に追い詰められた鼠ですら命がけで戦う。ましてや一国の宰相ともなれば、必ずや晋に復讐するに違いない、と言いましたが、のちに子玉が敗戦の責任を問われて殺されたことを聞くと大喜びしました。ここで荀林父を殺せば楚に勝ちを重ねされることになり、晋は長きに渡って低迷するでしょう。荀林父の君への奉仕ぶりは、進んでは忠を尽くそうとし、退いては過ちを補おうとしています。このような人物を殺してよいものでしょうか」(窮鼠猫を噛むの故事) そこで景公は荀林父をたすけた。 その後暫くの間、晋は楚に覇権を奪われて低迷したが、楚荘王の死後、荀林父が狄を討ったことにより、再び晋に武徳が甦った。
[編集] 晋の正卿として
荀林父の死後、士会が正卿となると晋国内の盗賊が全て秦へと逃亡した。 正卿となった士会は再び叛いた狄を討ち、多くの捕虜をえた。景公は士会に命じて、捕虜を周に献じさせ、士会が晋の正卿であることを周定王に正式に認めて欲しいと願い出た。 その後に士会は景公の命で、王孫蘇の乱で乱れた王室の騒ぎを治めた。 その際に、周王の宴に招かれた士会は己の典礼に関する知識の不足を痛感し、帰国したのちに儀礼の礼法を研究して晋の礼法とした。士会の定めた法は范武子の法と呼ばれ、士蔿の法とともに晋の国法になる。
その後、郤克が会同に招くために斉に使いして、辱しめられて帰ってくると景公に復讐のために斉に出兵することを願い出た。景公はこれを許さなかったが、郤克の怒りの凄まじさを見た士会は会同の後にすぐさま引退を決意し、子の士燮に「燮よ、わたしはこう聞いている。人の怒りの邪魔をすればその害毒を受けると。いま郤子の怒りは凄まじいが、かれに思う存分に政治をさせればその怒りは解けるであろう。汝は執政の方々に従い、ただ謹んでおればよい」と言い残して職を辞した。
[編集] 引退後
ある時、士燮が遅く退出して帰宅したので士会が「どうして遅くなったのか」と尋ねた。士燮は「秦から使者が来て朝廷で謎を出しましたが、大夫の中に答えられるものが居りませんでしたので、わたしが3つ解きました」と答えた。すると士会は怒気をあらわにして「大夫たちは解けなかったわけではない。目上の父兄に譲って黙っていたのだ。汝は朝廷で三度人を侮辱したのだぞ。わたしが晋にいなければ汝はすぐに滅んでしまうであろう」と言って持っていた杖で激しく士燮を打ち、冠の留め金を折るほどであった。 またある時、東方の鞍というところで晋と斉が会戦を行い、晋軍は大勝利を得た。その凱旋の軍を迎えた士会は士燮の到着が遅れたので大いに心配し、ようやく現れた士燮に「汝の帰りを待ち望んでいたことが分からぬか」と言って叱りつけた。士燮は笑って「このたびの軍は郤子が率いた軍ですが。わたしが先頭で帰ってくると国人の耳目がわたしにそそがれますので、あえて遅れて帰ってきたのです」と答えた。士会は大いに喜んで「嗚呼、わたしは禍を免れるであろう」と言った。
[編集] 死後
のちに晋悼公は、「范武子(士会)は執秩の法を明らかにして晋を安定させ、その法は今でも用いられている。文子(士燮)は一身を勤労して諸侯を鎮定服従させ今でも晋はその功に頼っている。この二人の徳を忘れて良いものだろうか」と言って。士会の子で、士燮の弟にあたる士魴を新軍の将に任じた。