前橋城
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前橋城の航空写真 (1980年度撮影・国土航空写真) |
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通称 |
厩橋城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
3重3階(非現存) |
築城主 |
長野方業、松平直克 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、土塁、堀 |
前橋城(まえばしじょう)は日本の城。所在地は群馬県前橋市大手町。江戸時代は前橋藩の藩庁となった。
[編集] 概要
前橋城は前橋市の中心に位置し、利根川と広瀬川を天然の外堀とする渦郭式の平城である。しかし、代表的暴れ川で「坂東太郎」と呼ばれた利根川の氾濫により浸食され江戸時代中期には一時廃城となった。
現在の城址は市街化が進み、本丸跡は群馬県庁、二の丸跡は前橋市役所、三の丸跡は前橋公園である。
[編集] 沿革
前橋の地は古くは厩橋(まやばし)と呼ばれていた。室町時代中期15世紀末頃に箕輪城の支城として長野方業(法号・固山宗賢)が築城したとされる石倉城がその前身である。数度の利根川氾濫の後、天文3年(1534年)石倉城が洪水により崩壊し、残った三の丸に当時の城主長尾賢忠が再び築城した。
天文20年(1551年)関東管領・上杉憲政は北条氏に敗れ、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに奔った。これにより上野国は北条氏の支配に入り、厩橋城も北条軍に包囲された。圧倒的な軍事力に屈した賢忠は北条氏に和議を申し入れ上杉謙信を頼り城を明け渡した。
永禄3年(1560年)上杉謙信は上野に進軍し、厩橋城を攻め取った。再び賢忠を城代とし、上杉軍が関東へ進出する足掛かりとした。永禄6年(1563年)北条・武田連合軍に攻め落とされた。この攻防戦の際に賢忠は病気を理由に参陣しなかったため、謙信の勘気に触れ断罪された。その後再び上杉氏が城を取り戻すと北条高広(きたじょう たかひろ)を城代に据えた。
謙信の死後の天正7年(1579年)武田勝頼が進軍し城を攻めた。高広は降伏し厩橋城は武田氏の城となったが、高広は引き続き城代として残った。天正10年(1582年)3月武田氏が織田信長によって滅亡すると、織田氏の部将滝川一益が城主となった。6月、本能寺の変によって信長が横死すると一益は上野を撤退。これに進入を図る北条氏直に敗れ(神流川の戦い)、再び北条氏の元に帰す。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めにより部将の浅野長政が厩橋城を攻め落とした。北条氏滅亡後の同年8月、徳川家康が関東に封ぜられると家康の家臣平岩親吉が3万3千石で入城した。慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの後、親吉は甲府藩に移封され、代わって酒井重忠が3万3千石で入城した。忠重は入城すると城の大改修を行い近世城郭へと変貌させた。この際に3層3階の天守も造営された。酒井忠挙の時代、慶安2年(1649年)には「厩橋」から「前橋」に改称した。しかし、度重なる利根川の氾濫により城郭は浸食され18世紀の初頭には本丸の移転を余儀なくされた。
寛延2年(1749年)酒井氏が播磨国姫路藩に転出すると入れ替わりに姫路より松平朝矩が15万石で入城した。以後、明治維新まで越前松平家の居城となった。松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験したため借財が多額に上り財政は破綻していた。このため浸食により崩壊寸前の前橋城を修築するだけの財力はなかった。明和4年(1767年)本丸が浸食の危機に曝されたため居城を武蔵国川越城に移した。これにより前橋領には陣屋が置かれ、明和6年(1769年)に前橋城は廃城、破却された。
天保年間(1830年 - 1843年)に石田与重により利根川の改修工事が行われ、これにより流れが西方に変わり城が崩壊する危険が減少した。また、領民の再三にわたる帰城の請願がなされ、藩主・松平直克は遂に幕府の許可を得て文久3年(1863年)12月に前橋城の再築を開始した。築城に際し上州特産の生糸が開港した横浜より輸出され生糸貿易で潤った領民の献金や、労働奉仕も行われた。慶応3年(1685年)3月、城が竣工し直克が入城した。しかし、僅か半年後には大政奉還が行われ江戸幕府が終焉した。
明治4年(1871年)廃藩置県により築城より僅か6年で廃城となった。本丸御殿は群馬県庁として利用されたが老朽化により建て替えられ、現在は平成11年(1999年)に竣工した地上33階・地下4階の超近代ビルに生まれ変わっている。領民の力により再築された城であったが、現在の城跡にはその面影は少なく市街化している。