八木秀次
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八木秀次(やぎ ひでつぐ、明治19年(1886年)11月28日 - 昭和51年(1976年)1月19日)は、日本の工学者である。専門は、無線工学。工学博士で、八木・宇田アンテナの共同発明者・教育者としても知られている。
[編集] 経歴
- 1886年1月28日 大阪府に生まれる
- 1909年 7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業
- 同年7月、仙台高等工業学校講師
- 同年12月、一年志願兵として中野電信隊に入営
- 1910年 陸軍工兵軍曹
- 1913年 ドイツ留学
- 1919年 東北帝国大学工学部教授 工学博士の学位を取る
- 1925年 八木アンテナの基礎理論を発表
- 1926年 八木アンテナを特許化
- 1933年 大阪帝国大学理学部物理学科主任教授
- 1942年 東京工業大学学長に就任
- 1944年 内閣技術院総裁に就任
- 1946年 大阪帝国大学総長に就任するもGHQの公職追放者指定を受けて辞職 日本アマチュア無線連盟会長に就任
- 1951年 藍綬褒章を受章、民主社会主義連盟会長に就任
- 1952年 八木アンテナ社長に就任
- 1953年 右派社会党から参議院議員選挙に全国区で立候補し当選
- 1955年 五島慶太に請われて武蔵工業大学学長に就任
- 1956年 参議院議員選挙に落選、文化勲章を受章
- 1976年 勲一等旭日大綬章を受章 1月19日死去
[編集] 技術院総裁時代
- 八木が総裁を務めた内閣技術院は、立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導する中心的存在となるべき組織であり、総裁の八木自身、熱線誘導兵器の研究を推進していた。同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。
- 敗色濃厚となった1945年には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い。
[編集] 大学教授時代
八木博士は学生への講義で「本質的な発明ができるようになるためには心眼で電波が見えるように成らなければならない」と教えていた。これをオカルト的に解釈するのは間違いであり、見えない物の挙動を科学的な推論によって把握する能力を持たなければ本質的な発明は出来ないと解釈すべきである。