佐田の山晋松
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佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - )は、大相撲の第50代横綱。本名、市川(旧姓佐々田)晋松。長崎県南松浦郡有川町(現新上五島町)出身。身長182cm。一時期佐田乃山、佐田ノ山を名乗っていた。
幼い頃地元の英雄となっていた元大関五ツ嶌の話を聞いて大相撲に憧れ昭和31年1月、五ツ嶌と同じ出羽海部屋に入門する。昭和35年3月場所で新十両、昭和36年1月新入幕し、5月には優勝するが12勝3敗での単独優勝、成績もさることながら対戦した役力士は小結冨士錦のみ、しかも十両優勝の清ノ森と対戦して負けているのでこの場所の最高優勝は十両ではないのかとまで言われてしまった。このため優勝争いをする平幕力士は横綱、大関と対戦させるという現在の制度が作られるきっかけになった。昭和37年3月関脇で13勝2敗、大鵬との決定戦に勝って2度目の優勝、大関になった。出羽錦は佐田の山を熱心に指導し「晋松が綱を取ったら儂が太刀を持つからそれまでは引退しない」と言って横綱昇進を心待ちにしていたがこれには間に合わず昭和39年に出羽錦は引退してしまった。同年9月から3場所連続13勝2敗、昭和40年1月には3度目の優勝で横綱に推挙される。長年にわたり平幕優勝した力士は横綱や大関にはなれないと言われてきたが佐田の山によってこれは破られた。そして出羽錦引退相撲で土俵入りを披露し恩に報いた。ところが昭和43年3月に序盤で3敗を喫するとあっさり引退してしまった。前場所、前々場所と悲願の連覇を達成した直後なので周囲は驚き髙見山に金星を献上したことが悔しかったのではないかという憶測まで流れたが本人は前年3月にかつて弟弟子だった北の冨士が初優勝した時点で引退を考えていたそうである。出羽海一門の横綱、大関に見られる引き際の潔さという伝統を受け継いだとも言われた。
優勝6回は横綱としても悪くない数字だが大鵬との合口が非常に悪く通算5勝27敗(決定戦は数えず)に終わった。大鵬とは勝てば優勝という場面での対戦が最も多い力士であることからもう少し勝っていれば優勝回数を2桁にすることも可能だったといわれている。全勝優勝はなかった。
当時の出羽海親方である出羽ノ花の娘と結婚し、引退すると出羽海親方は即座に彼に部屋を継承させ武蔵川に戻ってしまった。この時「引退して少しは楽になると思ったらますます大変なことになった、もう少し現役でいればよかった」と言っていたようである。出羽海一門には常陸山が一門を創設して以来となる「不許分家独立」の不文律があり、消滅した部屋の再興以外独立がなかった(九重は破門されたので数えない)が、かわいがってきた弟弟子の三重ノ海が独立の意思を持っていると知るとこれを許可した。大正8年の栃木山以来となる円満独立だった。それ以降不文律は事実上消滅したのか出羽海一門でも分家独立が相次いだ。
引退後は、日本相撲協会の監事・理事をつとめ、二子山理事長が定年を迎えた1992年から理事長を3期6年務めた。この間に元関脇・鷲羽山と名跡を交換し出羽海から境川となった。
理事長の6年間で、「巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更」、「外国人力士の入門規制」、「新規入門の年齢制限」、「幕下付出の基準設定」、「年寄株の複数所有,貸借禁止」、「大関経験者の時限付年寄襲名許可と準年寄制度の創設」の施策を実施した。しかし、年寄空き株の協会管理を打ち出すと、反対する理事が続出して混乱し、責任を取る形で4期目以降の理事長続行を断念した。この騒動が原因からか、還暦土俵入りを辞退している。
これらの施策の中で現在もそのまま生き残っているのは、「大関経験者の時限付年寄襲名許可と準年寄制度の創設」と「新規入門の年齢制限」くらいであり、「幕下付出の基準設定」のように次代の時津風理事長の時さらに基準が強化されたものや「巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更」、「年寄株の貸借禁止」のように北の湖理事長によって旧に復されたものもある。
理事長続行断念後も理事職には留まり、1998年から教習所長、2000年からは審判部長を務めた。2002年からは相談役に就任した。2003年1月場所後に直弟子の元小結・両国と名跡交換して年寄・中立を襲名し、同年2月17日を最後に停年(定年)退職した。
007シリーズ『007は二度死ぬ』に本人役で登場したこともある。
[編集] 主な成績
- 通算成績:435勝164敗61休
- 幕内最高優勝:6回
- 殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞1回。