京都成章高等学校
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京都成章高等学校 | |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人明徳学園 |
設立年月日 | 1986年(昭和61年) |
学科 | アカデミーコース ゼネラルコース |
所在地・連絡先 | |
所在地 | 〒610-1106 京都府京都市西京区大枝沓掛町26 |
外部リンク | 京都成章高等学校 |
京都成章高等学校(きょうとせいしょうこうとうがっこう)は、京都府京都市西京区に位置する、学校法人明徳学園が運営する私立高等学校である。関西圏内でも有数の進学校として知られており、また、野球部・ラグビー部が全国大会に出場するなどスポーツも盛んな学校でもある。
目次 |
[編集] 沿革
- 1986年 (昭和61年) 創立。男子校として出発
- 1996年 (平成8年) 創立十周年記念式典開催
- 1998年 (平成10年) 夏の全国高校野球選手権大会準優勝
- 2003年 (平成15年)男女共学化(アカデミーコースのみ)
- 2006年 (平成18年) 創立二十周年記念式典開催
[編集] 校訓
- 自学:教師と一体となって真理を追求し、生涯を通じて学び続ける。
- 自成:自・他の中から個性や能力を生かし、人間としての成長をはかり自己形成につとめる。
- 自立:個性と社会に立脚しながら、自らの将来を切りひらいていく自主的な人間になるようにつとめる。
[編集] 学科
- アカデミークラスは男女共学。ゼネラルクラスは男子のみ。
[編集] 進学実績(平成18年度)
- 立命館・関大合格者数・京都1位(全国では4位と3位)・同志社合格者数は京都2位(全国では6位)などが特に目立つが、その他国公立大学の成績でもかなりの好成績を上げている。今勢いに乗っている高校のひとつ。
[編集] 京都成章史詳説
- 1986年~2001年 (初代校長栢分次郎 二代目校長小林冨三 三代目校長横江幸彦)
長年、女子学生を送り出してきた明徳学園が男子の進学校を造る方針を固め、今までグラウンドとして使っていた沓掛の地に校舎を建設し始める。その裏には、後に校長となる小林冨三氏がだした「蜷川虎三府政の高校三原則のアンチテーゼのような高校をつくりたい」という意見が明徳学園側に採用された事にあった。
開学当初は、方針が定まらなかったといわれ、全体的にも不安定な状態が続いた。
ただ、二代目校長小林冨三氏が就任してからは、関西有数の「ひたすらやらせてやらせてやらせ抜く」超スパルタ高校として躍進し始める。
勉強面での厳しい課題(宿題・予習チェック・早朝テストなど)が毎日大量に生徒側に課せられた。生活面でも、頭髪検査をはじめとする厳しい校則がつくられ、日々の生活態度にも監視の目が入っていく。そして、数年で関西有数の進学校に成長し、学校は活気に沸いた。
当時、その快進撃を支えたのは横江幸彦教頭(後の三代目校長)や薦田泰生教諭(後の五代目校長)を筆頭とした教師陣の頑張りと団結力によるところが大きかったが、その理不尽な環境で鍛えられて栄冠を勝ち取っていった生徒側の努力も見逃せない要素であった。
入学してきた生徒達は、学校が僻地に建っている上に、行き帰りの交通手段もかなり不便、他校より厳しい学校環境で、周りからは「青虫」(男子校時代の制服は紺色の詰襟学生服・水色のカッターシャツだったことから)・「成章虫」・「バカデミー」などと嘲られるような高校に入学した事を後悔する者が大半であった。唯一の楽しみといえば運動会(マラソン大会)・文化祭(又は芸術鑑賞)とスキー修学旅行のみであったといわれる。
しかし、次第に生徒達もその困難な環境で生きていくサバイバル術がそなわっていく。一方で教師側も少子化による生徒獲得戦争の中で、京都成章高校を成長させなければならず、サバイバル環境はほぼ同じであった。必然的に生徒との関係も、他校より非常に近く、熱いものになっていく。志望大学合格後、気づいてみれば、あれだけ京都成章高校を嫌っていた生徒達も、先生方と学校に心からの感謝を述べて卒業していった。
また、1998年には夏の全国高校野球選手権大会において準優勝を果たすという快挙も達成した。ただし、その大会の決勝・横浜高校との戦いでは、怪物といわれた松坂大輔にノーヒット・ノーランを達成されてしまったため、京都成章関係者にとっては二重の意味で強烈なインパクトも残した。
創立わずか10年あまりで急激に伸びた事と(「カリスマ渉外部長」福家崇明教諭が)広報宣伝を効果的に行った事で知名度は上がったのだが、同時に「成章は勉強強制収容所だ」「スパルタ受験勉強で人間形成をはかるのは邪道だ」「現代に蘇った西山大枝の鬼・酒呑童子高校が生徒を喰らう」などという批判も寄せられた。
京都成章側は、これに対し「若い時に苦労体験をさせるのは、人生において必ず役に立つ。」「生徒を地上の楽園(志望大学)に送り出せるのなら邪道でも結構。」「この高校が、本当に『鬼』であるかどうかは生徒が大人になったときわかる」という論理で応戦。
時あたかもゆとり教育全盛時代。この論争は明らかに京都成章高校側に分があり、学力低下や人間育成法に悩む親や生徒たちのニーズをつかみ、地域の信頼もたかまっていった。
- 2001年~2006年(三代目校長横江幸彦・四代目校長上田正雄・五代目校長薦田泰生)
しばらくは、そのまま順調に進学実績を伸ばしていったが、一方で経営母体の明徳学園との関係がギクシャクし始めた。三代目校長に就任した横江幸彦氏は、京都成章の更なる発展を目指す路線を採択する。ただ、その路線の中には明徳学園本部から財務面などで距離を置くという改革案が含まれていたのだ。
このような動きが起こった背景には、学園本部側に対する現場の横江校長サイドの反発があった。長年、京都成章に入ってきた資金が、かなりの部分、現場に還元されずに学園本部に吸い上げられた状態になっていたのだ。そのため、学校施設も古いまま使われ、生徒のための予算も限られた状態になっていた。加えて、少子化のなか、今以上に生徒達を立派に育てていくため(『成章君子・成章紳士の育成』)には、京都成章が独自につかえる財源が絶対必要であった。
この横江氏の動きに明徳学園側は、激怒した。いままで京都成章は大学合格者数を増やしてお金を上納してくれさえしていればよいと考えていたため、飼い犬に手をかまれてしまったのだ。そして、学園本部側は、彼にきつい縛りをかけた。当然のことながら、その処置に反抗した横江氏は、任期途中で校長を解任されてしまった。
その後、この混乱を収めるために姉妹校の京都明徳高等学校から上田正雄氏が四代目校長として赴任した。上田氏は学園側の立場をとりながらも、現場重視の姿勢も打ち出し、教職員や生徒達の動揺を静めていく。そして、安定した進学校としての地位を固めていく。その上で、地域から要請されていた京都成章の共学化も成し遂げた。
この共学化事業が完成したのを見届け、上田氏は京都成章高校を去った。そして、成章高校開学時より英語教師として教壇に立ってきた薦田泰生氏が校長の座を引き継いだ。
- 2006年~これから(五代目校長薦田泰生・六代目校長茶谷利夫)
薦田泰生校長は今までの路線をさらに豊かにし、校長就任一年にして過去最高の進学実績を打ち立てた。また、共に京都成章発展の礎を築いてきた国語科の辻村健治教諭を教頭に就けて、一層の飛躍を目指した。辻村氏は敏腕進路部長として内外に知られ、古典の教師としても一流であった。
しかし、再び明徳学園本部から横槍がはいり、薦田校長はわずか一年で解任され学校を追われた。そして、それに反発した辻村健治教頭や福家崇明教諭をはじめとする教師達は一斉に学園側に辞表を提出した。
度々、飼い犬に手をかまれた学園側は「明徳学園副理事長」の茶谷利夫氏を六代目校長として送り込み、京都成章の直接統治に乗り出した。この人事により、明徳学園と成章高校の執行部が直結したことで、今までのように現場の校長側と学園理事会側の意見が対立するという事は無くなると思われる。ただ、最近の明徳学園は明らかにおかしい校務運営をしているといわれ、外部人事のみならず「教育現場内部」までその影響をうけるとなると、大混乱を起こす可能性があり懸念されている。
今年、過去最高の進学実績を打ち立てたり、副科目(音楽・体育など)にも力を入れたりと生徒の人間力・学力向上に対する熱意や面倒見のよさには定評があるものの、内部の様子はやや波乱含みである。六代目校長に就任した企業経営者出身という茶谷利夫氏の手腕が問われている。
[編集] OB
- 久保貴裕‐元プロ野球選手、元ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)投手
- 大家友和‐大リーガー、ミルウォーキーブリュワーズ投手
- 倉義和‐プロ野球選手、広島東洋カープ捕手
- 吉見太一‐プロ野球選手、西武ライオンズ捕手
[編集] 交通機関
京阪京都交通により登下校のバスが出ている。 桂駅行き・亀岡駅行き・京都駅行き・洛西口駅行きなど。