二本松藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城。霞ヶ城。
目次 |
[編集] 概要
二本松といえば戦国時代も終わりに差し掛かった天正13年(1585年)、二本松の領主であった二本松義継が伊達政宗の父・伊達輝宗を拉致して政宗に輝宗と共に殺されたことで有名である。その後、二本松の地は政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷がそれぞれ支城として支配した。寛永4年(1627年)、忠郷は嗣子無くして病死。このため蒲生氏は会津領を改易(ただし名跡、所領は伊予で存続)され、代わって加藤嘉明が40万石で入る。このとき、嘉明の娘婿であった松下重綱が与力大名として二本松城に入ったことから、二本松藩が立藩した。しかし重綱は同年の内に死去。子の松下長綱が後を継いだが、幼少のために田村郡にあった三春藩に移される。代わって二本松には嘉明の三男・加藤明利が入った。しかし寛永20年(1643年)に改易となる。
代わって同年8月2日、白河藩主であった丹羽光重が10万700石で入る。光重は織田信長の絶大な信任を受けた重臣・丹羽長秀の孫であり、信長の重臣であったという名家の所以から、国主格の厚遇を受けることとなる。
幕末期、第9代藩主・丹羽長富は江戸湾警備で活躍した。戊辰戦争で第10代藩主・丹羽長国は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、各地で敗戦を重ねて1868年7月28日に長国は米沢藩に逃亡し、翌日に二本松城は落城した。長国は9月に降伏し、自身の隠居を条件として丹羽長裕(米沢藩主・上杉斉憲の子)が養嗣子として後を継ぐことを認められた。なお、このときに5万石も減らされた。1869年の版籍奉還で長裕は二本松藩知事となり、1871年の廃藩置県で二本松藩は廃藩となり、二本松県となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 松下(まつした)家
3万石。外様。
[編集] 加藤(かとう)家
3万石。外様。
- 加藤明利(あきとし)<従五位下。民部大輔>
[編集] 丹羽(にわ)家
10万700石→5万700石。外様。
- 丹羽光重(みつしげ)<従四位下。左京大夫。侍従>
- 丹羽長次(ながつぐ)<従四位下。左京大夫>
- 丹羽長之(ながゆき)<従五位下。越前守>
- 丹羽秀延(ひでのぶ)<従四位下。左京大夫>
- 丹羽高寛(たかひろ)<従四位下。左京大夫>
- 丹羽高庸(たかつね)<従四位下。若狭守>
- 丹羽長貴(ながたか)<従四位下。左京大夫。侍従>
- 丹羽長祥(ながあき)<従四位下。左京大夫>
- 丹羽長富(ながとみ)<従四位下。左京大夫。侍従>
- 丹羽長国(ながくに)<従四位下(後に正三位)。左京大夫。侍従>
- 丹羽長裕(ながひろ)<従五位>