三原城
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本丸天守台 | |
通称 |
浮城、玉壺城 |
城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
建造されず |
築城主 |
小早川隆景 |
築城年 |
1580年 |
主な改修者 |
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主な城主 |
小早川氏、福島氏、浅野氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣、堀 |
三原城(みはらじょう)は、現在の広島県三原市に建てられた城。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
現在ではJR山陽新幹線や山陽本線、三原駅が、本丸跡を貫いているため、寸断されている。そのため三原城本丸の天主台跡に行くには三原駅構内から行くほかない。天守台は江戸城天主台と同規模の面積があるが、実際に天守が建築されたことはない。
[編集] 沿革
天正8年(1580年)に小早川隆景によって沼田川河口付近にあった中州(島?)へ建てられた浮城(又は海城)で、当時、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた城である。縄張りは梯郭式。隆景の死後、この城は、関ヶ原の戦いの後に安芸、備後に入った福島正則の養子正之を経て、紀伊国和歌山藩主浅野長晟の筆頭家老の浅野忠吉が紀伊国新宮藩より入り、広島藩の支城として幕末まで活用された。
明治維新後、帝国海軍の鎮守府建設のために政府が確保していたが、沼田川の堆積作用のため遠浅になっていたため解除された。明治27年(1894年) 山陽鉄道三原駅建設の際は駅用地に転用され、建築物は材木や市内の糸崎神社や順勝寺の門に移築されたり、石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。
1975年の山陽新幹線開通に際し、更に城址は破壊され現在のような姿になる。2004度より天主台跡付近の密集していた民家敷地を買収し付近を保存、公園化する工事が進められている。
[編集] 遺構
- 昭和32年(1957年)12月11日、現存している天主台とその周りの内堀一帯が国の史跡に指定された。公園になっており小早川隆景像がある。
- 本丸中門跡の石垣(JR三原駅南口の再開発ビル”ペアシティ”西側・新高山城の石垣を利用)
- 東舟入櫓跡(ジャスコ三原店西側・瀬戸内海に面していた石垣が現存。国指定史跡。)
- 西船入櫓跡(三原国際ホテル横に保存)
- 近隣の和久原川付近に石垣の遺構が残存。
城址には建造物は残存していないが、以下の門が移築利用されている。
- 糸崎神社神門(市内糸崎町・三原城にあった侍屋敷門が利用されている・三原市指定重要文化財)
- 順勝寺山門(市内西町・三原城内にあった作事奉行所門を1877年に移したもの。三原城の城門14箇所のうちの一つ。)
[編集] その他
- 大善寺 広島藩家老職で三原浅野家3代浅野忠真の側室、三原浅野家4代浅野忠義の生母であり徳川幕府三代将軍徳川家光の落胤とされる月姫の墓所がある。 寺には5000石の御化粧料を下賜され、将軍家菩提寺である増上寺の寺号を賜り増上山大善寺とされ、葵の門の使用が許され事実、現在でも境内の随所に葵の紋章が施されている。なぜ浅野家の家老職の身であった浅野忠真の側室になったかというと月姫が江戸城内にて忠真に一目惚れしたとの言い伝えがある。
- また徳川家光の乳母であった春日局が青年期、夫、稲葉正成と伴に三原城で過ごしていて、このお万の方輿入れに深く関与している。
- ”三原には過ぎたるものが3つある”という言葉があり他藩から羨ましがられた。、それは第一に三万石の居城に相応しくない規模の”三原城”、第二に前述の月渓院に関係する”徳川将軍家の「葵」の紋所横断幕”第三に”日光東照宮の修理を10日間で成し遂げた鈴木方衛(すずきなみえ)という家臣がいたという事であると伝えられている。
[編集] 見学方法
- 天主台へはJR三原駅コンコース内からのみ登れる。ただし通路は朝6時から夜10時まで開いている 入場券は不要。舟入櫓跡は市の港町公園となっているのでいつでも見学できる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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