リフレーション
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リフレーション(リフレ)政策とは、デフレ不況下にある経済を克服するため、マクロ経済政策(主として金融緩和政策、時に財政政策も併用)を通じて有効需要を創出し、遊休資本を解消してマイルドインフレ(数%程度)に誘導することで不況を脱しようとする政策である。通常はインフレやデフレと同様に略して「リフレ」と呼ばれ、日本語では「通貨再膨張」とも訳される。
[編集] 昭和恐慌と高橋財政
濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相が主導した金解禁により、金本位制に復帰した日本は、折からの世界恐慌にも巻き込まれ、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥った。石橋湛山や高橋亀吉ら、従来より旧平価による金解禁に反対していた経済学者たちは、井上の財政を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えた。石橋らは「インフレ誘導」という言葉のイメージの悪さを忌避して「リフレーション」という用語を多用したという。
やがて濱口首相暗殺後、若槻礼次郎内閣を経て、立憲政友会の犬養毅内閣が成立すると、蔵相に就任した高橋是清は、事実上のリフレ政策を断行する。金輸出を再び禁じて金本位制から離脱し、国債の日本銀行引き受けを通じて市場に大量のマネーを供給することで、金融緩和を推進した。また軍需拡大を中心とするケインズ政策を併用し(ただしケインズの代表著作であり「一般理論」とも呼ばれる「雇用・利子および貨幣の一般理論」が出版されたのは二・二六事件で高橋が暗殺された後である)、日本が世界に先駆けて不況を脱することに貢献した。
[編集] 平成のデフレ不況
戦後、日本はハイパーインフレに悩まされるが、世界経済においてもインフレ基調が続き、次第にデフレの記憶は遠ざかっていた。しかし1990年代に入り、バブル経済時の日銀の過度な金融引き締めによってバブルが崩壊すると、平成不況と呼ばれる深刻な不況となり、やがて日本は先進国では戦後初めて異例のデフレに突入した。しかし、日銀を初めとして政府も当初それほど深刻には考えておらずデフレ克服に本腰を入れることは無かったため、デフレ不況は長期化し、日本は「失われた十年」と呼ばれる経済的損失を被った。特に橋本内閣時の消費税増税および、日銀による2000年のゼロ金利解除(時期尚早との反対論を無視して強行されたため逆噴射と揶揄された)により、さらに不況は深刻化した。
ポール・クルーグマンやベン・バーナンキ、岩田規久男ら日米の経済学者たちからはこのような日銀・政府の姿勢を強く批判し、リフレ政策によるデフレ克服を唱えた。その具体的な方策としてリフレ派の経済論者からはインフレターゲットが再三にわたって提案されているが、日銀や一部経済学者の中には反対論が多く、採用に至っていない。
しかし、2000年のゼロ金利解除の失敗を受けて行われた量的緩和政策および、2003年から行われた円安維持のための大幅な非不胎化介入により、ベースマネーが増加したため、結果としては緩やかながらリフレ的政策となったこともあり、景気は回復傾向に向かいつつある。ただし、消費者物価指数(CPI)が依然として0パーセント代なのにも関わらず、「デフレはほぼ克服された」として、2006年3月に日銀は量的緩和政策を解除、7月にゼロ金利政策を解除したため、再びデフレに陥るのではないかとの懸念の声もある(実際、8月にCPI算定基準の改定によりマイナスになっている)。
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