ヤン3世 (ポーランド王)
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ヤン3世ソビエスキ(Jan III Sobieski, 1629年8月17日 - 1696年6月17日)は、ポーランド王(在位:1674年 - 1696年)。「大洪水時代」と呼ばれる衰退の時代を経たポーランド王国において、軍人から国王に選出され、様々な対外戦争で華々しい戦果をあげた英雄で、その治世はポーランド王国史上で最後の輝かしい時代となった。しかしヤン3世の実力を持ってしても、ポーランドの衰退化に歯止めをかけることが出来なかった。
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[編集] 事跡
[編集] 国王選出まで
のちにポーランド国王ヤン3世となるヤン・ソビエスキは、1629年にポーランドの古都クラクフの城主を務めたポーランド貴族(シュラフタ)ヤクプ・ソビエスキとその妻ゾフィア・テオフィラの間に生まれ、1668年にヤン2世カジミェシュ国王によってポーランド軍司令官に任じられた。
1672年、ポーランドはウクライナ、ポドリアを巡ってポーランド領に侵攻してきたオスマン帝国に敗れ、国王ミハウは両地の割譲を認めて講和を結ぼうとした。しかしポーランド議会の貴族たちは、国王の弱腰に反対して講和を認めず、ソビエスキを指揮官として戦争を継続させた。ソビエスキはポーランド軍を再建し、翌1673年にホティンの戦いでオスマン軍を破った。同年ミハウ王が在位わずか4年で没すると、翌1674年5月21日に議会のシュラフタたちは軍人のソビエスキを後継のポーランド国王に選出し、ソビエスキがヤン3世として即位した。
[編集] オスマン帝国との戦い
ヤン・ソビエスキを国王に戴いたポーランドは、続くオスマン帝国との戦いにおいてオスマン軍をたびたび破り、1676年までに戦争を終結させた。結局ポーランドはこの戦争によってポドリアの割譲を余儀なくされたが、ヤン3世の活躍によりミハウの時代に一時は失った領土を部分的に奪還することができた。
1675年、西欧で起きたオランダ戦争に対し、ヤン3世は中立の立場を取った。この戦争にスウェーデンは参戦して敗れている。この時スウェーデンを破ったブランデンブルク=プロイセンは、ポーランドのかつての属国であったが、ヤン3世は結局、プロイセンの拡大とスウェーデンの弱体の間隙に付け入る事が出来なかった。
1683年、ウクライナ東部を巡るモスクワ大公国(ロシア)との戦いに勝利したオスマン帝国が矛先を改めてオーストリアに侵攻、首都ウィーンを包囲すると、オーストリアを支配するハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はポーランドに支援を要請した。ヤン3世はこれに応えてオーストリアやドイツの諸侯と同盟を結び、自ら連合軍を率いてオーストリアに向かった(第二次ウィーン包囲)。
9月12日、ウィーンの郊外に達したヤン3世は、オスマン帝国軍が大宰相カラ・ムスタファ・パシャ自らが率いる大軍であっても、全軍の指揮が不統一で士気も弛緩し、防備が弱体であることを見抜き、その日の夕方に連合軍に総攻撃を命じた。連合軍の中央突破によってオスマン軍は、わずか1時間ほどの間に包囲網を寸断されて散り散りになり、潰走した。この勝利により、ヤン3世はイスラム教徒のトルコ人の手から全ヨーロッパ・キリスト教世界を守った英雄としての名声を得る。
[編集] 神聖同盟
ヤン3世率いるポーランド王国は、第二次ウィーン包囲をきっかけとした教皇の呼びかけにより、オーストリア・ポーランド同盟にヴェネツィアなどが加わって結成された神聖同盟において引き続き重要な一角を占め、ポドリアやウクライナにおいてオスマン帝国と戦った。また、この方面からオスマン帝国の勢力を駆逐するためにロシアを神聖同盟に引き込んだが、これは長らくウクライナやベラルーシ、西部ロシアの領有を巡って争ってきた両国にとって伝統的な外交政策の大転換となった。
この対オスマン戦争は長期化し、神聖同盟諸国側に優位なまま戦線が膠着したが、戦争初期のオスマン帝国の連敗により、オーストリアがハンガリー、トランシルヴァニアからセルビアにかけて広大な占領地を得て国力を大いに回復したことから、神聖同盟の間で軋轢が生じた。ヤン3世は折から体調を崩していたこともあったが、同盟間の不和によって同盟における居場所を失っており、1690年に神聖同盟から離脱してポーランドに帰国した。
晩年のヤン3世は、議会による選挙王制を覆し、息子ヤクブに王位を継承させて強力な世襲王朝を成立させようと目論むが失敗に終わり、また内政改革も不発に終わった。このように往年の王権に陰りを見せ始める中、1696年にヤン3世はポーランド南部のヴィラヌフで没した。ヤン3世亡き後のポーランド王国は長き暗黒時代に入り、栄光は2度と輝く事はなかった。
[編集] 評価
彼の治世のポーランドは戦争に明け暮れ、ついにポドリア方面における失地を回復することに成功したが、オスマン帝国との戦争を優先させるためにその他の周辺諸国との間での係争や国内の問題は疎かにされた。内政改革案はポーランド議会の機能停止によって消失し、彼の名声に支えられた王権はかえってポーランドの内外に脅威を与え、また近隣キリスト教諸国にポーランドに対する警戒と緊張関係を招いた。
ヤン3世の時代にポーランドの国力は確かに回復したが、ロシア帝国(モスクワ大公国)、バルト帝国(スウェーデン)、神聖ローマ帝国(オーストリア)などの強力な周辺諸国と潜在的な対立関係をもったことにより、王国の国内外の関係は不安定な状況を強いられた。特に同時代、ブランデンブルク=プロイセンの強大化を座視した事も、結果として失政に挙げられる。それでもヤン3世が存命のうちは、その名声に支えられた王権の権威は維持されたが、その死後にポーランドは混乱に陥り、王国の弱体化はヤン3世以前よりもむしろ一層進み、分裂、混迷の末に王国の解体に突き進んでいった。
従って、その輝かしい治世は一方で、続く18世紀にポーランドの国際的な地位が転落していく契機を残したという見方も可能であるし、結局のところヤン3世は衰退するポーランド王国を救うことが出来なかったという厳しい評価が下されもしている。要するにヤン3世がオスマン帝国に見せた国威をヨーロッパ諸国に植え付けられれば、ポーランドの再大国化は可能であったし、18世紀の混沌も避けられたのである。従って、ヤン3世没後に彼の栄光がポーランドの国力として継続できなかった事が、選挙王制であるポーランド王国の弱点として見透かされ、ヨーロッパ強国に付け入る間隙を与えてしまったのである。