プラハ窓外投擲事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プラハ窓外投擲事件(プラハそうがいとうてきじけん、チェコ語Pražská defenestrace, ドイツ語Prager Fenstersturz)は、1419年と1619年に起こったボヘミア(現・チェコ)の神聖ローマ帝国に対する反抗。前者はフス戦争の契機、後者は三十年戦争の契機として知られる一方、チェコにおける民族運動とも評価される。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 第一次プラハ窓外投擲事件
1415年、コンスタンツ公会議において、宗教改革の先駆者として知られるプラハ大学教授ヤン・フスが、異端と宣告されて火刑に処された。これに憤ったフス派の勢力は、プラハの市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と市参事会員を窓から投げ捨てたとされる。これが第一次のプラハ窓外投擲事件である。これを契機として、ドイツ人の追放やカトリック教会への襲撃が広がり、フス戦争が勃発した。このチェコにおける民族運動は1436年まで続いた。
[編集] 第二次プラハ窓外投擲事件
17世紀初頭、熱烈なカトリック教徒で異端根絶を目指していたハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)が、ボヘミアの事実上の統治者となった。これに反発した勢力が、プラハ城を襲って国王顧問官を窓から投げ捨てたとされる。これが第二次のプラハ窓外投擲事件である。この後、ボヘミア貴族がプファルツ侯のフリードリヒ5世をボヘミア王として擁立しようとしたため、ハプスブルク家は本格的な弾圧を図った。ハプスブルク家は白山の戦いで勝利を収めたものの、苛烈な戦後処理のために他の新教諸邦のいくつかもハプスブルク家に叛旗を翻した。こうして、三十年戦争が本格化していくことになった。
[編集] 第三次プラハ窓外投擲事件
1948年、チェコスロバキアの外相であった、ヤン・マサリク(初代大統領トマーシュ・マサリクの息子)は、外務省の中庭で転落死体として発見された。彼の死は、自殺と発表されたが、死因には不可解な面もあり、共産主義者よって殺害されたと言う説が有力である。彼は共産主義政権との関係に苦慮していたとされている。ヤン・マサリクの死後、チェコスロバキアは、完全に社会主義国家化され、1968年を除き、41年に渡り、ソ連の衛星国となった。