ファルージャの戦闘
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ファルージャの戦闘(ファルージャのせんとう)は、イラク・ファルージャにおいて2004年に発生したアメリカ合衆国軍とイラク武装勢力の間の戦闘である。
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[編集] 概要
ファルージャは首都バグダッドの西方に位置し、スンニ派イスラム教徒の多いスンニー・トライアングルの中核をなしている。サッダーム・フセイン元大統領の政党バアス党の幹部を輩出するなど、フセイン支持者が多く、1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争で激しい反米運動を展開するなど、暫定統治の弊害となっていた。
[編集] 4月の戦闘
ファルージャは有志連合軍による占領以降、アメリカ合衆国海兵隊が占領統治を行ってきた。ファルージャではスンニ派住民が多数を占めていたので、米軍に対する感情はあまりよくなかった。特に2003年4月に米軍が学校で子供達をはじめとした住民十七人を銃殺してからは、反米感情はさらに高まっていた。
2004年3月31日、武装勢力がアメリカ人警備員(実態は民間軍事会社、事実上の傭兵)4人を殺害した後、暴徒と化した市民が遺体を焼いて損壊、橋や電線に吊るすという事件が起きた(傭兵は国際法違反とされている)。
米軍は犯人の引渡しをファルージャ側に要求し、市街地であるファルージャに対し包囲掃討攻撃を開始し多数の住民を殺害した。米軍は、4月11日からは空爆を中心とする大規模な無差別攻撃を開始し、さらに多くの住民を殺害した。殺害された住民の数は600人とも千人以上とも言われる。殺害された住民のうち25%は女性で、25%は子供だったとも言われている。私立病院の院長ターレブ・アルジャナビ氏によると、米軍は、病院も、一般住民も、武装戦士達も、区別することなく攻撃したという。(アルジャナビ氏の病院も三度くりかえして、米軍による攻撃を受けたそうである。ただし、住民側は武装勢力と一体化しており米軍からは区別が不可能であるのも事実である)。完全制圧を目指した米軍であったが、ファルージャ市内での惨状がマスメディアによって報道されると、イラク各地での反米運動の他、世界から非難が沸き起こり、作戦を中止せざるを得なかった。4月13日に米軍はファルージャ市内から完全に撤収した。
この攻撃のため市民の対米感情は更に悪化し、この後アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアルカーイダ系の武装勢力もこの街を根拠地とするに至ったと考えられた。武装勢力はこの地で、誘拐した外国人の殺害を繰り返したともされている。
[編集] 武装勢力の掃討作戦
5月以降、シーア派武装勢力が南部を中心に米軍に攻勢をかけた。8月中にはムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディ軍団」が南部最大の都市バスラなどで一斉蜂起したが、マフディに数十名の死者が発生し、下旬に停戦に至った。しかし、南部での紛争が続く間、スンニー・トライアングルでは武装勢力の動きが活発化した。このため、9月に入ると米軍はこれらの掃討を行う必要に迫られた。9月上旬にモースル、マハムディア周辺、ラマディを攻撃、10月にはサマラを攻撃し、武装勢力を掃討した。だが、この一掃作戦の中でもっとも執拗に攻撃を行ったのも、ファルージャであった。他の標的が短期間で戦闘を終結できたのに対し、ファルージャに対しては連日攻撃を加えても武装勢力が掃討できなかった。
[編集] 攻撃
- 8月27日、武装勢力が多数根拠地を置いていた市の西部を空爆し、5人が死亡した。
- 9月1日、空爆を行った。
- 9月6日、武装勢力が攻撃を仕掛け、米兵7人とイラク兵3人が死亡。
- 9月7日、海兵隊が武装勢力根拠地を報復攻撃し、約100人が死亡した。
- 9月8日、空爆を行った。
- 9月13日、空爆と地上からの攻撃で15人が死亡した。
- 9月16日、地上から攻撃を行い、16人が死亡した。
- 9月24日から25日にかけて地上から攻撃を行い、イラク人8人と海兵隊5人が死亡した。
- 9月27日、精密弾で空爆し、8人が死亡した。
- 9月30日、空爆で3人が死亡した。
- 10月2日、地上から攻撃して7人が死亡した。
- 10月3日、地上からの攻撃で4人が死亡した。
- 10月4日、空爆で9人が死亡した。
- 10月8日、空爆で11人が死亡した。ファルージャ住民代表と多国籍軍・暫定政権が停戦交渉を開始するが、ザルカーウィーの存在を巡って対立する。
- 10月11日、空爆で2人が死亡した。
- 10月12日、空爆で5人が死亡した。
- 10月14日、住民代表がザルカーウィーの存在を否定し続けたため交渉決裂。空爆と共に海兵隊とイラク国家警備隊が侵攻し
- 10月15日、米軍が家族と共に脱出しようとした住民代表を拘束(18日に釈放)。
- 10月16日、空爆を行う。
- 10月21日、米兵が市外で自動車に発砲、同乗していた子供2人が死亡した。
- 10月27日、空爆を行った。
- 10月28日、空爆を行った。
- 10月30日、国連コフィ・アナン事務総長がブッシュ米大統領、ブレア英首相、アッラーウィー暫定政権首相にファルージャ攻撃の中止を求める書簡を送る。
- 11月1日、暫定政権ヤーワル大統領が米軍の掃討作戦を批判。
- 11月4日、空爆を行い、3人が死亡する。ブッシュ大統領が「イラクを自由な国家にするためには、選挙を阻止しようとする連中をやっつける必要がある」と表明。アッラーウィー首相も同調。
- 11月5日、空爆を行う。暫定政権がファルージャ市民に対し、45歳以下の男子は武装勢力とみなして市への出入りを禁止し、子女の市内からの退去を勧告。
- 11月6日、米軍とイラク国家警備隊1万人がファルージャを包囲して封鎖した。米軍シャップ司令官は「イラク政府の許可が下り次第、攻撃を開始する」と表明。また、すでに市民30万人の大半が脱出し、武装勢力1200人を含んだ3000人から6000人のみが残ると発表。この日も空爆を行い、武器庫に500ポンド爆弾5発を投下する。衛星テレビアルジャジーラは病院と報道。
- 11月7日、暫定政権はクルド人自治区を除くイラク全域に60時間の非常事態宣言を発した。
[編集] 「夜明け」作戦
11月8日、アッラーウィー首相は「1月の国民議会選挙を実施することができるようにテロリストを排除する」として、米軍とイラク国家警備隊のファルージャ侵攻を承認し、ファルージャ市民の外出禁止令、バグダッド国際空港の48時間閉鎖、生活物資輸送を除くシリア・ヨルダン国境の封鎖を発令した。
米海兵隊4000人とイラク国家警備隊の連合軍が市西部から侵攻を開始した。激しい砲撃の後に歩兵と戦車を駆使して市内へ進撃、総合病院と2つの橋を確保した。病院確保について、CNNは無辜の民間人が負傷していることを隠す為ではないかと報道したが、米軍は病院を利用した反米宣伝活動を阻止する為だとし、また、モスクを攻撃して10名死亡、病院での戦闘で38名が死亡したとの報道に対し、米軍は市民説を否定して、死亡したのは武装勢力42名と説明した。攻撃には航空機による援護もあったが、特にガンシップAC-130が投入され、武装勢力を射殺した。これに対し、ザルカーウィーはインターネットを通じて徹底抗戦の意思表示を示した。 また、武装勢力側は降伏する姿勢を見せて米兵・イラク兵に近づいたところで攻撃をしたり、死んだふりをして米兵・イラク兵が近づいたところで攻撃するなどの行為を行っていた。
11月9日、連合軍は北部へ進撃しながら市の中心部に迫った。市の電力を切断し、3分の1を制圧したが、これまでに米軍10名、イラク軍2名の死者を出した。一方、スンニ派のイラク・イスラム党とイスラム宗教者委員会は侵攻に抗議、選挙ボイコットを表明し、また、イラク・イスラム党は閣僚を引き揚げ暫定政府から離脱した。 。また、アッラーウィー首相の親族2名が誘拐され、バグダッドなどで報復的な爆弾テロが起きた。
11月10日、海兵隊報道官は中心部を含め市の7割を制圧し、武装勢力70人を殺害したと発表した。しかし、米国のラムズフェルド国防長官は500名の武装勢力を殺害したと表明し、敵の死者数を把握できなかったことが分かる。また、在イラク多国籍軍のメッツ作戦司令官は、ザルカーウィーは侵攻以前に市外へ逃亡していたという見解を述べた。
11月12日、連合軍は市の北部を制圧し、武装勢力60名を殺害した。4日間の戦闘で米軍18名、イラク軍3名が死亡した。イスラム宗教者委員会は抗議として、4日間のゼネストを国民に呼びかけた。
11月13日、イラク政府はファルージャに残るのは一部の武装勢力の拠点だけで、制圧作戦は終わりを迎えたと表明した。武装勢力は延べ1000名が死亡、また連合軍は200人を拘束した。対してシーア派民兵を率いるサドルも選挙ボイコットを宣言した。一方、赤新月社はファルージャ市民の生活は壊滅状態だと発表。翌11月14日、赤新月社の救援トラックがファルージャに入ろうとしたところ、米兵によって阻止された。15日にもトラックが進入を試みたが再び阻止され、避難民を装って救援物資を搬入した。
11月15日、負傷したイラク人を海兵隊員が死んだふりをしている武装勢力と勘違いし、誤射殺した映像が流出して問題となる。
11月16日、暫定政権ダウード国防相が武装勢力1600名を拘束したと表明した。
11月19日、暫定政権ナキーブ内務相がファルージャの戦闘が終結したと発表したが、同時にファルージャの武装勢力の主体はイラク人だったことも表明、武装勢力は外国人であると宣言し続けてきたイラク政権が、自国民が武装勢力となっている現実を認めることはまれである。
11月21日、暫定政権は市内86地区の内、75地区で捜索を完了し、安全が確認されたと発表した。一方、米軍は20箇所におよぶ武装勢力の拷問所を、ファルージャ警察は隠してあった地対空ミサイル、迫撃砲、地雷などを発見した。
11月25日、イラク軍がザルカーウィー・グループの旗を掲げた工場を発見し、毒ガス工場だと公表した。しかし、毒ガスを製造していた痕跡は無い。暫定政権はファルージャでの死者が2080名、拘束者が1600人以上の上ったことを発表した。米軍の事前公表では、ファルージャ市内に残る人数は3000人から6000人であったことから、6000人だとした場合3分の1が死亡し、生き残りの半数近くも拘束したことになる。なお、8日からこの日までに米軍は50人、イラク軍は8人が死亡した。
連合軍は歩兵、車両、航空機をもってファルージャを攻略した。作戦の初期においてクラスター爆弾やナパーム弾、燃料気化爆弾を使用した可能性が指摘されている。また、随行した医師団がイラク人の死体から内臓を摘出して米国へ輸送していることから、化学兵器を使用した可能性もある。報道関係者に対しては、4月の教訓を受けてファルージャ周辺で情報を封鎖し、市民の死傷者や町の被害状況などを報道できないように操作した。
[編集] 紛争の飛び火
北部の都市モースルでは11月9日から武装勢力(恐らくはファルージャからの転戦)によって警察署が襲撃され、11月13日に西部が勢力下に置かれた。米軍は11月14日に200人で占領された警察署を奪還したが町の制圧には至らず、ファルージャの一個歩兵大隊を転戦させ、11月16日から米軍1200人とイラク軍1600人で攻撃を開始した。12月にほとんどを奪還し、同月中旬に最後の支配地域を空爆した。これに対して武装勢力は22日、モースルの米軍基地に自爆テロを加え、米兵19人とイラク人3人を殺害した。
ファルージャでは11月19日以降も散発的な戦闘が続いたが、12月に入って7割の地域で武装勢力の攻勢が回復し、治安は更に悪化した。12月15日、連合軍は武装勢力との間で大規模な戦闘となったが、これを制圧した。
ファルージャ占領後、米軍は地元の武装勢力でも親米的なグループをイラク軍・イラク警察として認めて治安維持に当たらせることで、米軍兵力を撤収させていたが、彼らは戦闘が起こると逃亡したり、敵へ寝返ったりするものが多い。また、米軍式の訓練を受けて戦闘技術を持った兵士が脱走して、反米的な武装勢力に加わることもあるという。
[編集] 映画化
2005年に入ってから、この11月の戦闘をハリウッドで映画化することが決定された。主演はハリソン・フォードで公開時期は未定。