ネフェルティティ
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ネフェルティティ(Nefertiti,NeFeRTiTi,紀元前14世紀中葉)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアトン(aKH-eN-aToN,アケナトン,旧名アメンホテップ4世)の正妃であり、ファラオ、トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN,トゥタンカ-メン)の義母である。
彼女の名は、原義で、おおまかには、NeFeR-T-(美しい・者)が iTi(訪れた)というような意味である。ネフェルティティはまた、謎を秘めた未完成の美しい胸像で著名であり、古代エジプトの美女の一人と考えられている。
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[編集] ネフェルティティの生涯
[編集] 家族
ネフェルティティの両親が誰であったのか、正確には分からない。推測においては二つの説があり、一つは、後にファラオとなるアトンの大神官エイエ(eY-e)と、その妻タイア(TaY-a)(またはテイ)のあいだの娘とする説と、もう一つは、ミタンニ王女タドゥキパ(Tadukhipa)を彼女に比定する説である。
第19王朝において、アメンホテプ4世のアマルナ革命は否定され、ファラオ・アクエンアトンの存在そのものが記録から抹消された為、後に復元されたファラオの王統に従えば、彼女の夫であるアクエンアトンは、後のファラオ・トゥタンカーメン(旧名トゥト・アンク・アトン,トゥタンカトン)の父または異母兄である。
ネフェルティティが何時、アクエンアトンと結婚したのか、また何時正妃となったのか、正確な年や日付は不明である。しかし彼女はアクエンアトンとのあいだに六人の娘を生んだことは知られている。六人の王女の名前と推定誕生年は次の通りである。
- メリタトン(MeRiT-aToN) 在位2年 (紀元前1348年)
- メケタトン(MeKeT-aToN) 在位3年 (紀元前1347年)
- アンケセンパアトン(aNKHeSeNPa-aToN) 在位4年 (紀元前1346年) -トゥタンカーメン正妃
- ネフェルネフェルアトン・タシェリト(NeFeRNeFeRu-aTon TaSHeRiT) 在位6年 (紀元前1344年)
- ネフェルネフェルレ(NeFeRNeFeRu-Re) 在位9年 (紀元前1341年)
- セテペンレ(SeTePeN-Re) 在位11年 (紀元前1339年)
[編集] アマルナ革命
在位4年 (紀元前1346年)、アメンホテップ4世(後のアクエンアトン)は、歴史に著名なアトン信仰を宣言する。この年はまた、今日アマルナ(テル・エル・アマルナ)として知られる、新都アケタトン(「アトンの地平」の意)の建設が開始された年だと信じられている。在位5年 (紀元前1345年)、アメンホテップ4世は、彼の新たな信仰の証として、みずからの名を、公式にアク・エン・アトン(「アトンに愛される者」,アケナトン)に変更した。それは、1月2日頃であったと推定される。在位7年 (紀元前1343年)、帝国の首都は、テーベより、アケタトン(アマルナ)へと遷都された。とはいえ、新都の建設はなお進行中であり、更に二年を要して、紀元前1341年頃に都市としての体裁を整えたと考えられる。新都は、王と王妃、二人の新しい信仰に献げられた。また遷都の前後、ネフェルティティの胸像は作成されていたと考えられている。
[編集] 娘に続くネフェルティティ自身の記録の消失
在位12年 (紀元前1338年) の11月21日と推定される碑文が、彼女の娘メケタトンについて言及する最後の記録である。この日付の後、少ししてメケタトンは死去したと考えられる。アマルナの王家の谷にあるアクエンアトンの墓の浮き彫りは、彼女の葬儀の様を表しているように思える。
アクエンアトンの在位14年 (紀元前1336年)、ネフェルティティ自身に関する歴史的記述が、一切、消えてしまう。また、この後、彼女について言及した記録も存在しなくなる。仮説は、王妃の突然の死に出逢い、耐え難い心の苦痛を抱いた王アクエンアトンが、ネフェルティティに関する言及を禁じたとするものから、王の寵愛を失い、女王の地位を失ったネフェルティティが政治的に失脚し、その名が消えたというものまで、議論されてはいる。しかし、この事件に関する信憑性ある資料は、歴史から完璧に消え去ってしまっている。
[編集] 共同統治者スメンク・カ・ラー
ネフェルティティの消失は、共同統治者スメンク・カ・ラー(SMeNK-KHa(H)-Ra)の王座への登位、そしてアクエンアトンの新たな女王キヤ(KiYa)への言及と、時間的に符合している。スメク・カ・ラーは、ネフェルティティの娘メリタトンと結婚していたと考えられる。しかし、スメンク・カ・ラーが、ネフェルティティに代わってアクエンアトンの正妃の地位を占めたとも考えられ、また二人のファラオが恋人関係にあったとも考えられる。いずれにしても、スメンク・カ・ラーもアクエンアトンも、紀元前1334年または紀元前1333年に逝去した。アクエンアトンは死亡のとき、少なくとも29歳であり、17年間、王位にあった。スメンク・カ・ラーは、四年のあいだ、アクエンアトンの共同統治者であった。ネフェルティティをスメンク・カ・ラーに比定する説も存在する。
[編集] ネフェルティティは誰であったのか
トゥト・アンク・アトン(TuT-aNKH-aToN,トゥタンカトン)が二人の後を襲った。彼は、アメンホテップ3世かアクエンアトンの息子であると考えられ、おそらく、スメンク・カ・ラーの弟だと思える。トゥタンカトンは、ネフェルティティの娘の一人アンケセンパアトンと結婚した。王夫妻は、どのように年齢を見積もっても、若く未経験であった。ある説は、ネフェルティティはなお存命しており、若い二人に影響力を持っていたと信じている。もし事態がこの通りだとして、彼女の影響力と、おそらく彼女の人生自体が、トゥタンカトンの在位3年 (紀元前1331年) には終焉していたと考えられる。トゥタンカトンは、アメン神への信仰の証として、その名を、トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN,トゥタンカーメン)に変え、アケタトン(アマルナ)を放棄して、首都をテーベに戻した。ネフェルティティがミタンニ王女タドゥキパだったとすれば、彼女は、この頃、三十五歳前後である。
タドゥキパ、ネフェルティティ、スメンク・カ・ラー、そしてキヤのあいだで想定される比定に見られる通り、彼らの時代や生涯に関する記録はきわめて不完全である。これらの人物は、元々、別人であるのか、またはそのうちの誰かは、名前が変わっただけで、同じ人物なのか、想定はできても、歴史的な資料からは、事実は判然としない。
ネフェルティティは、タドゥキパであったのか、共同統治者スメク・カ・ラーであったのか、あるいは突然出現する王妃キヤであったのか、その誰とも違っていたのか、現時点の歴史的資料からは判断ができない。考古学者と歴史学者双方の今後の研究が、ネフェルティティと、公的舞台からのその忽然とした退場を説明する、新たな説を展開させるかも知れない。
[編集] アクエンアトンの改革と敗北
紀元前1346年 (頃)、エジプト第18王朝の若きファラオ、アクエンアトン(旧名アメンホテプ4世)は、父王アメンホテップ3世の逝去で、全権を掌握すると、かねてからの理想を実行に移し始めた。
- 伝統的なアメン神を中心にした神殿権力による多神崇拝を否定し、太陽神アトンの一神崇拝を理念に掲げた(世界最初の一神教といわれる)。神殿勢力の本拠であるテーベと古都メンフィスを棄て、新たな地に新都アケタトンを築き、遷都した。アクエンアトンは、アテンを讃美する平和と恵みの歌をみずから記し、エジプトの主要な土地で、「アトン讃歌」と呼ばれる讃美の詩を岩に刻ませた。これをアマルナ革命と言う。
- アテンは平和と恵みの神であり、アクエンアトンは戦争を否定し、ためにヒッタイトの侵出を許した。また多神教を理念的に否定したのであって、アメンの神官等を鏖殺することをせず、神殿勢力を存続させたため、アクエンアトンの死後、すみやかに神殿勢力は勢いを復活させ、アトン信仰は崩壊へと進んだ。
- 紀元前1334年 (頃)、アクエンアトンを継承した、ファラオ・トゥトアンクアトン(Tut-aNKH-aToN)は、名を、トゥトアンクアメン(TuT-aNKH-aMeN)に変え、アメン信仰に復帰する。
- トゥトアンクアメンの早急な死後、大神官エイエはファラオの位に登り、アメン神殿と宥和して、将軍ホレムヘブを派遣してヒッタイトをパレスティナより撃退する。ホレムヘブがやがて、エイエの後を襲ってファラオとなり、アクエンアトンの名と存在、その事績をすべて抹消する。こうして、アマルナ革命は、アクエンアトンやその家族、宮廷の記録と共に、エジプトの砂の彼方に埋もれた。
[編集] 古代エジプトの三人の美女
ネフェルティティは、クレオパトラと並んで美女の代名詞にもなっている。「古代エジプトの三大美女」と言えば、紀元前1世紀、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世、紀元前13世紀、第19王朝の大王ラムセス2世の正妃ネフェルタリ、そしてこのネフェルティティがあげられる。
[編集] 彫刻
高さ48cm。石灰岩製。砂の中に埋まっていたので彩色は保存されていた。右眼は象嵌。左眼は彫った跡もなく未完。現在、ベルリンのエジプト博物館にあるが国際裁判中。
- ネフェルティティ(アマルナ出土の胸像:ベルリンの国立博物館所蔵:前14世紀半ばの作)
- 王妃ネフェルティティの胸像レプリカ(ルーブル彫刻美術館@三重県)