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ニューメキシコ州の歴史 - Wikipedia

ニューメキシコ州の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ニューメキシコ州の歴史は、1500年代にこのエリアを探険したスペイン人が、ネイティブアメリカンプエブロ族と遭遇した時に初めて記録された。それ以来、このエリアはスペインメキシコアメリカ合衆国によって統治された。

目次

[編集] 先住民のプエブロ族

ニューメキシコ州での人間の居住は、野営地と石器の証拠が残されている狩猟採集社会のクロービス文化があった1万年以上前にまでさかのぼる。農業の発明の後、古代プエブロ人が、石またはアドビレンガ(日干ししたレンガ)で家を建てて居住していた。古代プエブロ人は紀元1000年頃に最盛を迎えた。その後の気候の変化は、大きな川沿いの地域への移住を導き、そこに最初に居住した現代のプエブロ族の文化が進化した。

有史以前のネイティブアメリカンの遺跡は、現在のサンタフェにその存在を示している。アルバカーキ近くのサンディア山脈にある洞窟には、新世界での最も早い居住者の痕跡が見られる。プエブロ族は、1200年代に栄えた定住性の文化を構築し、リオ・グランデ川の谷とその近辺に居住し、小さな集落を建築した。

スペイン人は、1500年代にプエブロの文化に遭遇した。1527年のパンフィーロ・デ・ナルバエス遠征隊の4人の生き残りのうちの一人であるカベサ・デ・バカが、1535年に、ニューメキシコのどこかにある素敵な町についてのインディアンの話を聞いたことを記している。フライ・マルコス・デ・ニーサは、神話的な黄金都市、チボラの7都市の存在を熱心に認めている。フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは、1540年から1542年の間、これらの都市を発見するために大規模な遠征隊を率いている。コロナドは1541年に、今日コロナド・ナショナル・メモリアルに保存されている出土した集落の近くでキャンプをした。リオ・グランデ川渓谷の上流を探険している間の彼のプエブロ族への虐待は、スペイン人のニューメキシコの征服に対するその後の敵意へと通じた。

現在のニューメキシコ州の3大プエブロは、ズーニー、サントドミンゴ、そしてラグーナである。

[編集] スペイン植民地時代

[編集] スペイン人による探険と植民地化

フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは、1540年から1542年の間、メキシコのコンポステラに大規模な探険隊を集めた。カベサ・デ・バカが、フロリダからメキシコまでの8年間の悲惨な旅の末に到着したといわれている伝説のチボラの7つの黄金都市を発見するためであった。カベサ・デ・バカと3人の仲間は、1527年6月17日にフロリダへ向かって、80頭の馬と残りの探険家すべてを失ったパンフィロ・デ・ナルバエス探険隊の生き残りだった。これら4人の生存者は、太平洋沿岸のメキシコのシノロアに到着するのに、大変な8年を費やし、その間に多くのインディアン部族を訪ねた。

コロナドと彼の支援者たちは、乗ったり荷物を運搬するための馬とラバを1300頭と、持ち運べる食糧として100個の羊と牛の頭を手に入れ、この不運な事業に財産を費やした。コロナドたちは1541年、いくつかのアドビで造られたプエブロ集落を見つけたが、黄金都市は発見できなかった。アメリカ南西部やグレートプレーンズでのさらなる広範囲にわたる探険でも、素晴らしい街はどこにもなかった。落ち込んで、すっかり貧乏になってしまったコロナドたちは、ニューメキシコを後にしてメキシコへ帰った。おそらく、コロナドの残した最もすばらしい遺産は、アメリカの平野での数頭の馬と牛の損失だった。 これらの動物は5年毎に頭数が倍増して、すぐに荒野でスクスクと育った。後に荒野に群れを成すほどになるスペインの牛と同様に、100〜150年後にはほとんどすべてのインディアンたちが乗ることになる馬の先駆けになった。

コロナドの50年以上後の1598年、フアン・デ・オニャーテは、リオ・グランデ川の上に、現在のニューメキシコ州でのヨーロッパ人による最初の開拓地、サンフアン (ニューメキシコ州)を創った。オニャーテは、ニュースペインから遠く離れた植民地までの、距離にして700マイル(1100キロ)の「エル・カミノ・レアル」(英:The Royal Road)と名付けられた陸路を開拓した。オニャーテは、新しいヌエバメヒコ州(スペイン領のニューメキシコ州)の最初の知事になった。アコマにいるネイティブアメリカンたちは、 このスペイン人の台頭に対して反抗したが、激しい抑圧に直面してしまった。アコマとの戦いで、彼らは従属を拒否し、オニャーテは11人の兵士と2人の使用人を失ったが、数百人のインディアンたちを殺して24人を罰した。カトリックの伝道の名目で植民地にミッション(伝道所)を建設していたフランシスコ会は、プエブロの人々が、相変わらず食べ物や衣服や労働力を求め続ける新参者が彼らを洗礼することを、ますます承諾したがっていないことが分かった。

1609年、後のヌエバメヒコ州の知事となるペドロ・デ・ペラルタは、 サングレ・ド・クリスト山脈のふもとにサンタフェの地を開拓した。サンタフェは、この建設時以来ずっとニューメキシコ州の州都であるため、米国で最古の州都である。1610年、ペラルタは総督邸を建てた。植民地の繁栄には失敗したが、いくつかの伝道所は残った。スペイン人開拓者たちはアルバカーキの場所に1600年代中頃に到着した。宣教師たちは先住民をキリスト教に改宗させようとしたが、ほとんど成功しなかった。

[編集] プエブロの反乱

プエブロの伝統的な経済も混乱させられたため、プエブロの人々はやむを得ず植民者のエンコミエンダで働いたり、あるいはチワワ州の鉱山で働いた人もいたかもしれない。とは言っても、スペイン人は新しい農耕の道具を彼らに導入し、その代わりにナバホアパッチの襲撃隊に対するある程度のセキュリティを前提にした。その結果、1598年のニューメキシコ領地の北部では、その設立以来、彼らは相対的に平和に暮らしていた。

1670年代に、干ばつが地域を襲った。プエブロに飢饉をもたらしただけではなく、隣接する流浪の部族からの攻撃も増大した。この攻撃はスペイン人兵士も防御できなかった。同時に, ヨーロッパから導入された病気は先住民を荒廃させ、彼らの人数を大きく減少させた。これらの災害に対して、スペイン王朝の庇護と、それが課したカトリックの神はなにも救ってくれないと感じた人々は、もともとの古い神々への信仰に戻っていった。

[編集] ポパイ

魔術の使用による逮捕とその後の釈放に続いて、ポパイはプエブロの反乱を計画し、これを指揮した。いくつかの殺人の共犯によってスペイン当局から逃げていた間、ポパイはタオス・プエブロの集落で難を避けた。ポパイは、スペイン人に対して一斉に蜂起することを命令するその日までの残り日数を意味する結び目を付けた、プエブロ独特の結び目の暗号を持たせた使者を、各プエブロ集落に派遣した。

攻撃の決行日は1680年8月18日と決定された。しかしスペイン人はこれを事前に知っていた、プエブロにメッセージを伝えるために預けられた、テスケ・プエブロの2名の若者を捕らえて聞き出したのである。ポパイは、蜂起が計画された日の前の、8月10日、セント・ローレンスの祝宴の日、陰謀の実行を命令した。攻撃はタオス、ピクリス、テワによって、それぞれの集落で開始された。18人のフランシスコ修道士の聖職者、3人の平修士、男女子供合わせて380人のスペイン人が殺された。スペイン人開拓者は唯一のスペイン人の街であるサンタフェと、反逆に参加しなかった数少ない集落のひとつ、イスレタ・プエブロに逃げ込んだ。9月15日、イスレタへの避難民は、自分たちが唯一の生存者であると信じて、エル・パソに向けて出発した。その間、ポパイの賊はサンタフェの町を囲い込み、水の供給を断ち切った。総督邸を厳重に囲まれた、ニューメキシコのアントニオ・デ・オテルミン知事は、後退を余儀なくされ、9月21日にスペイン人の移住者たちは首都から一掃されて、エル・パソ・デル・ノルテへと向かった。

ピロ・プエブロは、イスレタと共に、エル・パソ・デル・ノルテまでスペイン人に同伴した。このことがおそらくはスペイン人の同情者と考えられた。イスレタの人々は、テキサス州イスレタの開拓地を設立し、今日までそこに住んでいる。

[編集] ポパイの王国

スペイン人の後退によって、ニューメキシコにはインディアンの権力が残った。ポパイはインディアンたちに、死の刑罰のもとに、十字架およびその他の宗教上のイメージを、カトリック教とスペイン文化のその他のいかなる痕跡と同様に、燃やすか破壊するように命令した。これにはスペインの家畜と果樹も含まれていた。また、彼は小麦と大麦の植え付けを禁じた。ポパイはさらに、カトリック協会の儀礼によって結婚した妻と離縁して、古いネイティブの伝統の儀式で、他の者と結婚するよう、インディアンたちに命令した。ポパイは1688年頃に死ぬまで、プエブロの知事として総督邸に住み、プエブロたちから捧げものを集めた。

彼らの成功に続いて、何百マイルという距離と6つの異なる言語で隔てられた異なるプエブロ部族たちは、誰がサンタフェを占領して国を統治するか口論した。この権力闘争は、流浪の部族による襲撃と7年間の干ばつが結合して、プエブロたちの決心を弱め、スペインのレコンキスタ(失地回復)の舞台を整えた。

[編集] 「無血」のレコンキスタ

1692年7月、ディエゴ・デ・バルガスはサンタフェに戻った。デ・バルガスは夜明け前に町を囲んで、スペイン王に忠誠を誓ってキリスト教信仰に戻るのならば、寛大な処置を約束するとして、インディアンたちに降伏するよう呼びかけた。インディアンのリーダーたちはサンタフェに集い、デ・バルガスと会い、平和に同意した。1692年9月14日、デ・バルガスは失地回復の正式な行為を宣言した。

交易の中心としてサンタフェが発展する中、戻ってきた開拓者たちは1706年に古い町のアルバカーキを設立した。町の名前は、ニュースペイン総督のアルバカーキ爵にちなんで命名された。設立に先立ち、アルバカーキはリオ・グランデ川下流に沿って、いくつかの大農場とコミュニティから成っていた。彼らは1706年、サンフェリペ・デ・ネリ教会を建てた。1700年代の徹底した牧場の開発と、いくつかの農耕は、この州に今も華やかに残るヒスパニック文化の基盤を作った。

デ・バルガスのニューメキシコの失地回復は、しばしば「無血レコンキスタ」と呼ばれている。しかしデ・バルガスは、平和を維持するための試みとして、数年の間、プエブロ人に対していくつかの軍事行動を仕掛けた。例えば第2次プエブロの反乱は1696年に試みられ、5人の宣教師と21人のスペイン人が死ぬ結果になったが、事実上阻まれた。世紀の終わりまでには、スペインのレコンキスタはきわめて完全だった。

スペインからの独立は短命ではあったが、プエブロの反乱は、プエブロ・インディアンたちに、彼らの文化と宗教を根絶やしにしようとする将来のスペインの努力からの自由の物差しを与えた。さらに、スペイン人はそれぞれのプエブロにかなりの払い下げの土地を発行し、彼らの権利を保護するための国選弁護人を任命し、スペインの法廷で訴訟事件を争った。

最初は野生だった馬を捕らえて、次第にスペインの馬を手なずけるようになったアメリカ南西部のインディアンたちは、ニューメキシコのスペイン人牧場を襲撃し、スペイン人の伝導所から馬を盗むことを開始した。交易と襲撃によって、インディアンの馬の文化はアメリカ西部一帯で急速に広まった。1700年中頃までには、カナダと同じくらい遠く離れた数人のインディアンが、スペイン領南西部深くで略奪をし、馬を盗んでカナダまで持ち帰っていた。このように、馬の世話をできたミシシッピ川の西側のほとんどすべてのインディアン部族が、スペイン人によって新世界に連れてこられた馬を手なずけるに至り、スペインの馬は、交易または窃盗によって、次第に部族から部族へと分散された。

1803年と1804年のルイス・クラーク探検隊の遠征では、これらの馬の子供のいくつかをインディアンたちと取り引きした。カリフォルニアの地理的に孤立した集落には、1780年代にスペイン人開拓者と宣教師によって導入されるまでは、馬も牛もいなかった。

[編集] アメリカ人による探険

ルイス・クラーク探検隊に続いて、多くの人がアメリカ南西部と西部の探険と毛皮の捕獲を開始した。

1807年、ゼブロン・パイクは、アメリカ合衆国政府のルイジアナ買収によってテキサスを通って戻る前に、ちょっとの間滞在したサンタフェの探険をした。

また、何人かの毛皮商たちは、1810年ごろからアメリカ南西部の探険を開始している。

山男で、短い生涯だった非凡な探険家のジェデッドアイア・スミス (1799年〜1831年)は1822年に探険を開始し、おそらく他の誰よりも西部と南西部を探険した。いわゆるオールド・スパニッシュ・トレイルの大部分を地図に描いた。彼はネバダ州のグレートベースンを最初に横断し、ユタ州を最初に縦断し、カリフォルニア州に陸路で入った最初の白人と信じられている。

キット・カーソンは14歳の時、1826年に家を出て、西のサンタフェに向かう幌馬車に乗り込んだ。1828年から1840年の間、カーソンはタオスにベースキャンプを構え、たくさんの毛皮を捕獲するために、カリフォルニア州シエラネバダ山からコロラド州のロッキー山脈までの西部の山じゅうを探険した。正直で、勇敢で、控えめな態度で彼の名声は増した。1842年、カーソンはミズーリの川船で偶然ジョン・フレモントに出会う。フレモントはカーソンを、太平洋までの西の道を地図に記すための彼の最初の探険のガイドとして雇い入れた。フレモントをアメリカ西部の砂漠と山を渡って案内するカーソンのサービスは、フレモントの広く読まれた探険レポートに記録されており、これによってキット・カーソンは国の英雄となる。

[編集] メキシコ領の時代

フランスナポレオン・ボナパルトは、ニューメキシコの北東の隅まで延長する、広大で未開拓の、そして未発達のルイジアナの地を、1803年ルイジアナ買収で米国に売った。ニュースペインの一部として、ニューメキシコ州の残りへの要求は、1810年から1821年のメキシコ独立革命に続く独立メキシコを通過した。26年間のあっさりとした名目上のメキシコ支配の間、メキシコのニューメキシコに対する権威と投資は弱かった。しばしば闘争を行ったメキシコ政府は、時間が少ししかなく、ニューメキシコへの興味もスペインの開拓地が始まったときから乏しかった。メキシコの役人は、メキシコ人家族たちへのニューメキシコに住わせる誘因として、大規模な土地払い下げ(通常は無料で)を開始した。拡張し続けるアメリカの、ニューメキシコへの台頭を恐れたことと、また彼ら自身と彼らの友人への報償を欲したためである。

アメリカ人の小規模な罠猟者の集団は、以前からサンタフェにいたが、スペイン当局は彼らとの交易を公式に禁じていた。しかし1821年11月、交易商のウィリアム・ベックネルは、独立したメキシコは今やサンタフェを通じた交易を歓迎しているというニュースを持って米国に戻った。

ウィリアム・ベックネルミズーリ州インディペンデンスを離れ、1822年のはじめ、最初の交易商の集団としてサンタフェに到着した。チャールズ・ベントとウィリアム・ベントの兄弟とセラン・セント・ブラインに率いられたサンタフェ・トレイル交易会社は、西部でもっとも成功を収めたひとつである。1826年には、領域に自分達の最初の交易場を持ち、そして1833年までには、彼らはアーカンソー川の上にベントズ・フォートと呼ばれる自分達のアドビ煉瓦造りの砦と交易場を造った。ニューメキシコ州タオスのおよそ200マイル東に位置しているこの砦と交易場は、サンタフェ・トレイル沿いにある白人によって植民された唯一の場所だった。セラン・セント・ブラインはタオスとサンタフェで、それらのジネスの店舗を経営した。防御のために集団で移動していた、400台以上の幌馬車のキャラバンは、その後780マイル(1,260km)のサンタフェ・トレイルに沿って、通常は春先に旅立ち、ニューメキシコに4〜5週間の滞在した後に戻るという、40日から60日間の例年の長旅になった。道は、カンザス州のドッジシティ南西で、山側と、シマロン側に分かれた。でこぼこした山側の道は、レイトン峠を通り過ぎて、ニューメキシコ州フォートユニオンの近くで、シマロン側の道と再び合流した。乾燥した南のシマロンルートには、ちらほらと丈が短い草があるだけで、野生生物はほとんどいなかった。現在のサンタフェ・ナショナル・ヒストリック・トレイルは、多くの場所が標されているか復元されて、この昔の道を追っている。

カリフォルニア州ロスアンジェルスからサンタフェまでのスパニッシュ・トレイルは、主に一年の間の少しだけ、サンタフェかその近くに住むスペイン人や白人交易商、元罠猟師たちによって使用された。1829年頃に始まって、道程はコロラド、タ、ネバダとカリフォルニアに広がり、一年に一度往復できる程度の大変な努力がいる2400マイルのきつい旅だった。取り引きは主に、カリフォルニアの馬と取り引きするための、サンタフェからの毛布といくつかの貿易品から成った。カリフォルニアでは馬がほとんど野生で育っていて、また市場をほとんど開かなかったので、安く取り引きできた。道には水が数日間補給できなかったり、道に沿って死んだ動物のいろんな部分の骨が散らばっている多くの箇所があった。ペッグ・レッグ・スミスのような山の男は、スパニッシュ・トレイルを何千頭ものスペインの馬とラバを連れて、サンタフェやタオスやベンツ・フォートに移動した。

1836年にテキサス共和国はメキシコの脱退に成功し、テキサス共和国として独立する。ほとんど誰もいない領土をリオ・グランデの北と東である、と主張した。ニューメキシコ当局は、1841年のサンタフェ出征で、ニューメキシコをテキサスの一部と主張したグループを捕まえた。

[編集] 米墨戦争の時代

アメリカのスティーブン・W・カーニー将軍と第1Dragoonsの300名の兵士、 ミズーリMounted Calvaryの第1および第2連隊の1600名のミズーリ志願兵、および500名のモルモン大隊は、米墨戦争中の1846年、サンタフェ・トレイルを行進し、反対者なしでサンタフェに入場した。カーニーは、代理民間知事として、タオスに住むサンタフェ・トレイルの交易商のチャールズ・ベントと共に、民間と軍事共同の政府を創設した。次に彼は、軍を4つの部隊に分割した。ひとつは、軍政府長官に任命されたスターリング・プライス大佐が、概ね800名を率いてニューメキシコを占領し維持することだった。アレクサンダー・ウィリアム・ドニファン大佐率いる2番目の集団は、800名余の兵士と共に、メキシコチワワ州エル・パソを占領して、ウール将軍と合流するよう命令された。3つめに、ラバに自ら装備を取り付た、およそ300人の竜騎兵はカリフォルニアに向かった。ほとんど徒歩で行進したモルモン大隊は、フィリップ・セント・ジョージ・クック中佐のもと、カリフォルニアまでの新しい南のルートを作るために、馬車で動くカーニーの後に続くよう命令された。およそ200名のカーニーの騎兵は、カーニーが東へ向かうキット・カーソンに遭遇し、カリフォルニアは既に大人しかったというメッセージを伝えた時、ニューメキシコに送り返された。カリフォルニアでは、ジョン・C.・フレモント率いるカリフォルニア大隊のおよそ400人の兵士と、ロバート・ストックトンアメリカ海軍中佐が率いるまた別の400人の水兵が、サンディエゴからサクラメントまでの大体7000人のカリフォルニア住民を統制していた。現在のアリゾナ州を含むニューメキシコ準州は、明白なアメリカの統制下にあった。テキサスとの正確な境界線は不確かだった。テキサスは、まずはじめにリオ・グランデ川の北のすべての土地が領地だと主張したが、しかし現在の境界線は後に同意された。カーニーはまた、カーニー・コードと呼ばれる戒厳令を布いて民間人を保護した。カーニー・コードは、準州の時代に、ニューメキシコの法令のベースのひとつとなった。

カーニーのニューメキシコへの入場に際しては本質的に闘争が行われず、メキシコ人の役人は手に入れるだけのお金全部を持ってメキシコ南部へと撤退した。カーニーがニューメキシコを出発した後、反乱と呼ばれる小競り合いがタオス・プエブロで発生した。1847年1月19日、タオス・プエブロの反乱者たちは、代理知事のチャールズ・ベントとおよそ10名の町に住むアメリカ人を殺した。素早い反応を見せたアメリカ合衆国は、スターリング・プライス大佐と軍隊をタオスに向かわせ、強固にたてられた教会に待避した反乱者を攻撃した。教会への集中砲火で、およそ150人の反乱者が殺され、400人以上が捕まった。6人の反乱の指導者たちは罪状の認否を問われ、1847年2月9日、絞首刑に処せられた。このタオスの反乱において、プライスはさらに二つの反乱の遂行と戦い、2月中旬には反乱を統制下に収めた。ポルク大統領はプライスを名誉階級の准将に特進させた。死傷兵の合計は、300人の反乱者と30人の「アングロ」(アメリカ軍人と開拓者はしばしばこう呼ばれた)が殺された。

1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で、メキシコは、今日アメリカ南西部カリフォルニア州として知られる、そのほとんどが未開拓の北の所有地を、戦争の終了とメキシコシティと多くのほかのエリアの米国の統制下からの回避と引き換えに、米国に割譲した。メキシコは1500万ドルの現金と、加えてわずかに300万ドルを上回る飛び抜けたメキシコの負債を肩代わりする約束も受け取った。ニューメキシコ(テキサスとカリフォルニアの間の領土に与えられた名前)は、州になるために人口の評価基準を技術的に満たした。しかし、議会は州にするのを断った。さらに上院は、ニューメキシコの広大な土地の払い下げはすべて承認されるとした、グアダルーペ・イダルゴ条約の第10条を削除した。それらのほとんどは、いつも地方の名士からの、友人たちへの贈り物であった。第10条を削除するという決定は、特にいくつかの地域のヒスパニックのコミュニティで、不人気なものとして残っている。 それは結局、何百万エーカーもの土地、材木、および水を、メキシコが払い下げた土地から取り払って、新たに公的な手続きで元の場所に置き直すという事態を招いた。プエブロにされたものを含むメキシコが払い下げた土地のすべては、正統であるとすることで尊重されている。

[編集] アメリカ準州の時代(1850年〜1912年)

米国議会の1850年協定のため、奴隷制反対の憲法のもとではニューメキシコが正式な州へ昇格することはなくなった。テキサスは、長い境界線紛争に決着をつけて、連邦政府にニューメキシコ東部を移譲した。協定のもとで、アメリカの政府は1850年9月9日にニューメキシコ準州を設立した。現在のアリゾナ州ニューメキシコ州のすべて、およびコロラド州の一部を含むその準州は、1851年、サンタフェを州都として公式に制定した。1850年の合衆国準州ニューメキシコの国勢調査では、ニューメキシコの領土全域に61,547人が住んでいるのが分かった。合衆国憲法の下では、ニューメキシコ住民自身で準州として奴隷制を許可するかどうかを自主的に決めることができた。しかし奴隷制の状態は、準州の時代の間にかなりの議論を引き起こした。州へ昇格できるかどうかは、奴隷制問題で鋭く2分割される議会次第であった。スティーブン・A・ダグラスを含む一方は、以前のミズーリ協定のように、準州であるなら必ずしも奴隷制を制限しないと主張した。エイブラハム・リンカーンを含むもう一方は、奴隷制を禁止した以前のメキシコの法の伝統が優先すると主張した。このような議会の状況にもかかわらず、ニューメキシコでは奴隷制はめったに見られなかった。1912年1月6日には、ニューメキシコは最終的に合衆国の一州となった。

ナバホとアパッチによる襲撃と略奪で、キット・カーソンは米墨戦争の後、引退してタオス近くの羊牧場に引っ込むという目論みを捨てることになってしまった。1853年に、カーソンは合衆国のインディアン担当を命じられ、タオスを本部にしてインディアンと戦い、目を見張るような成功を収めた。

米国は、1853年のガズデン購入によって、州の南西部の「ブーツのかかと部分」と、ヒラ川の下のアリゾナ州南部を取得した。ほとんど砂漠しかないこのエリアを購入した意図は、提案されていた大陸横断鉄道の開通にあった。わずかではあるが、ヒラ川の南に、はるかに簡単なルートが位置しているのが発見されていたのだ。この領土は、グアダルーペ・イダルゴ条約が1848年に交渉された時にはまだ探険されておらず、地図にもされていなかった。サンタ・アナは1853年に再び政権を握り、ガズデン購入によって彼の金庫をいっぱいにして、その年にメキシコ軍に支払うためのお金が必要だった。1881年、サザン・パシフィック社は、この購入された土地に2つめの大陸横断鉄道を建設した。

南北戦争で、テキサスの南軍部隊は、あっけなくニューメキシコ南部を占領したが、北軍は1862年前半に領地を取り戻す。ニューメキシコの部隊は北軍として戦い、キット・カーソンは、第1ニューメキシコ志願兵を組織して命令するのを手伝った。部隊はほかの場所で戦うために後方に引っ込められ、南軍とのヴァルヴァードの戦いへの参加と平行して、ニューメキシコやテキサスのアパッチ族ナバホ、そしてコマンチェらと戦う作戦に従事した。南部同盟の軍は、北軍の常勝部隊であるコロラド志願兵(パイクス・ピーカーズと呼ばれる)とニューメキシコ志願兵に、グロリエタの戦いで敗北し、後退した。1863年に、アリゾナ準州は別々の領土に引き裂かれた。

1875年、カトリック教会は大司教の拠点を創立した。1879年には、サンタフェ鉄道が、サンタフェから16マイル(26キロ)の町、ラミーにまで延び、1880年にはサンタフェに到達して、物語によく出る道、サンタフェ・トレイルに取って代わった。1880年にサンタフェ鉄道がさらに西に伸延されたことで接続した新しい町、アルバカーキは、古い町であったものが急速に発展した。

鉄道の登場で、1880年代には大放牧ブームが起こり、牧牛地帯の町の開発は進んだ。無法者で有名なビリー・ザ・キッドも登場した有名な事件、リンカーン郡戦争のように、牧畜業者たちは、お互いに、そして当局に対して意地を張り合った。大牧場主たちは羊飼いを追い出すことができずにいて、結局農場所有者たちと不法入居者たちは、牛が食べる「草の海」をフェンスで囲い、その土地を破壊することで牧畜業者を圧倒した。各人の土地の要求についての闘争は、もともといたスペイン人住民、牛の牧場主、新の農場所有者の間の痛烈な口論に発展した。破滅的な過放牧であったにもかかわらず、放牧はニューメキシコの経済の大黒柱として生き残ったのだった。

何世紀も続いたアパッチ族ナバホの闘争は、土地を苦しめた。1860年から1861年のロング・ウォーク・オブ・ナバホ(またはロング・ウォーク・オブ・ボスケ・レドンド)では、ナバホを厳しく鎮圧し、彼らの襲撃を終わらせた。1868年、ナバホの大部分は彼らの居留地に帰った。一方、アパッチ族による散発的襲撃は、1886年にアパッチ族酋長のジェロニモが最終的に降伏するまで続いた。

リオ・グランデ川上流のアルバカーキは、1889年に合併された。

[編集] 合衆国の一州の時代(1912年〜現在)

アメリカ合衆国議会は、1912年1月6日、ニューメキシコを合衆国の47番目の州として承認した。1912年2月14日の隣のアリゾナ州の承認で、現在の48州が完成した。

米国政府は1943年、第二次世界大戦の最中にロスアラモス国立研究所を建設した。トップシークレットの所員はそこで原子爆弾を開発し、1945年7月16日にアラモゴード近くの砂漠のホワイトサンズ性能試験場で、トリニティ実験を行い、初めて原爆を起爆した。

アルバカーキは戦後、急速に拡大した。俗説では、1947年のロズウェルの近くの高度実験中、政府が地球外生物の死体と装置を捕獲して隠したとして、数名によるしつこい(そして立証されない)クレームへとつながった。州は、核、太陽熱、地熱エネルギーの研究開発のリーダーとして、急激に頭角を現した。1949年に設立されたサンディア国立研究所は、アルバカーキのカートランド空軍基地の南とカリフォルニア州リバモア で核研究と特殊兵器開発を実行した。

チワワ砂漠から遠く離れたところにある核廃棄物隔離試験施設(WIPP)は、カールズバットの26マイル南東に位置している。ここで核廃棄物は、2億年以上安定している2150フィート地下深く掘られた場所の、2000フィートの厚さの塩の構成物の中に埋められている。WIPPは1999年3月26日に活動を開始した。

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