トミー・ラソーダ
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トミー・ラソーダ(Tommy Lasorda、1927年9月22日 - )は、アメリカ・メジャーリーグの元選手(投手)・監督である。
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[編集] 来歴・人物
両親がイタリア人の移民であり、本人も若干イタリア語なまりの英語を話す。
1944年にフィラデルフィア・フィリーズに入団。1949年にブルックリン・ドジャースに移籍。1954年にドジャースでメジャーデビュー。翌シーズンもドジャースでプレーするが、1956年にはカンザスシティ・アスレチックスでプレー。メジャーではこの3シーズンしかプレーしておらず、通算成績は0勝4敗、防御率6.48と全く振るわなかった。
しかし、ラソーダが他の選手の相談によく乗っていたのを見ていたドジャースのフロントは、ドジャース傘下のマイナーチームのコーチ就任を要請、ラソーダもこれに応じた(一時スカウトを行なっていた時期もあった)。その後、プレーヤーが徐々に上のリーグに上がっていくように、ラソーダも指導者としての腕を上げ、1A,2A,3Aの監督を歴任。
そして1976年に名将ウォルター・オルストンの後を継いでドジャースの監督に就任。オマリー家の家族経営の影響からか、他のチームが頻繁に監督のすげ替えを行なう中、1996年に健康上の不安を理由に自ら辞任するまで20年にもわたってドジャースの監督を務めた。その間、監督としての通算成績は1599勝1439敗(勝率.526)。地区優勝8回、リーグ優勝4回、ワールド・シリーズ優勝2回。1998年にはドジャースの副社長に、2005年には同球団の名誉顧問に就任した。なお、監督時代の背番号2はドジャースの永久欠番とされている。
2000年に行なわれたシドニーオリンピックではマイナーリーグの選手中心で編成されたアメリカ代表チームの監督を当時72歳という高齢ながら引き受け、見事金メダル獲得に貢献している。
2005年、アメリカのプロフェッショナル・ベースボール・スカウト基金(PBSF)は、「20世紀最高の監督」にラソーダを選出、と同時に2006年以降、「トミー・ラソーダ賞」を創設し、各年の最高の監督に対して同賞を贈ることを決定した。
ボビー・バレンタイン(現千葉ロッテマリーンズ監督)やマイク・ピアッツァ(現サンディエゴ・パドレス)も祖父母がイタリア人の移民であることから、彼らはラソーダに心酔していると言われている。また、日本球界にも親交があり、「長嶋茂雄と星野仙一は俺の兄弟。野茂英雄は俺の歳の離れた息子」とも豪語している。
[編集] 日本との関係
1995年、日本の球団(近鉄)との契約がこじれてメジャーリーグに挑戦してきた野茂英雄と契約して、野茂を頻繁に登板させた監督として日本でも非常に有名になり、またラソーダ本人もその後幾度となく来日し、親日家となる。
2001年には近鉄のスペシャルアドバイザーとなり、ドジャースの若手有望株選手(ショーン・バーグマン、ジェルミー・パウエル、ショーン・ギルバートら)を次々に日本に送り込み、2001年の近鉄優勝に貢献した(もっとも近鉄最後のシーズンとなった2004年には、今でも信頼のおけないストッパーの代名詞的存在となっているヘクター・カラスコを近鉄に紹介している)。また2006年のワールド・ベースボール・クラシックではアジア地区における親善大使を引き受け、1次リーグでは始球式も行なっている。
[編集] エピソード
[編集] ドジャーブルーの血
ドジャースの監督として確固たる地位を築いていったラソーダには、常に他球団への移籍の噂が絶えなかった。ある日、新聞記者がその件についてラソーダに直撃取材したところ、「俺の体にはドジャーブルーの血が流れてるんだ(If you cut me, I bleed Dodger Blue.)」とコメントし、移籍の噂を一蹴し、20年もの長期政権を務め上げた。
[編集] 何のためにプレーするか
とかくマイナーリーグでは自分が上のリーグでプレーしたいことから、スタンドプレーに走りがちになり、またメジャーリーグでも優勝が絶望的になると契約上のインセンティブを狙いに個人プレーが目立つようになるが、ラソーダはそのようなときに、「背中の名前(=個人)のためにプレーするのではなく、胸の名前(=チーム)のためにプレーしろ(Play for the name on your chest, not for the name on your back)」と諭した。この言葉は近鉄に技術指導のために来日した際に、近鉄の選手にも投げかけられている。