ヘクター・カラスコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘクター・カラスコ(Hector Pacheco Pipo Carrasco Pacheco、1969年10月22日-)は、ドミニカ共和国出身の野球選手(投手)。
ロサンゼルス・エンゼルス所属。2004年には大阪近鉄バファローズに在籍し、クローザーとして期待されたものの度重なる炎上で開幕からのチーム低迷の原因となった。この炎上ぶりはかなり印象的なもの(4月終了時点で5敗、防御率20.00。9日の西武ライオンズ戦では中島裕之に犠牲フライ、11日の同カードでは和田一浩に満塁本塁打(最終回に6失点、アウトは小関竜也への犠牲フライのみ)、20日の千葉ロッテマリーンズ戦では初芝清に二塁打を打たれ、いずれもサヨナラ負けを喫している)で打たれるクローザーの代名詞ともなった。そのため、他球団でもクローザーが打たれると「○○スコ」と呼ばれたり、リリーフに失敗することを「スコる」と呼ばれたり(例:小林雅英→コバスコ、豊田清→トヨスコ etc)、一軍で起用され続けた高須洋介が凡打を繰り返す様に一部のファンから「タカスコ」と呼ばれるなど、野手への転用まで登場した。
ただし4月末に2軍落ちして、5月に再び上がった後は中継ぎとしてなかなかのピッチングをしていた。7月などは20イニングで自責点はわずか1であり、(冗談半分とは言え)月間MVPの声が野球ファンの間で上がりさえもした。8月以降はやや失速する。登板数と投球回からもわかるように主にロングリリーフとして起用されていた。
また2004年6月に始まった近鉄球団合併問題では、チームメイトにメジャーリーグ時代のストライキの経験を生かし、ストライキについてのアドバイスをし、プロ野球選手会所属ではないにも関わらず、球団合併反対の署名活動に他の近鉄選手と共に参加した(この署名活動は選手会が主導してのものだったので、通常は外国人選手は参加していない)。
「東北楽天ゴールデンイーグルスのマスコットキャラクター『Mr.カラスコ』の名前の由来にもなった」とも言われるが、あちらは「カラスの子」が由来であるので関係がない。
しかし、『Mr.カラスコ』という名前に反応した野球ファンもかなり多かったから、カラスコが(良きにつけ悪しきにつけ)印象に残る選手であったことは間違いない。なお、大阪近鉄時代の背番号は30である。
近鉄を1年で解雇された後、2005年はワシントン・ナショナルズに所属。当初は中継ぎだったものの、先発投手に怪我人が続出した終盤は先発に転向して活躍した。オフにFAとなり、エンゼルスと2年契約を結んだ。2006年現在、2004年に近鉄に在籍していた選手で年俸が一番高いのはカラスコである。
[編集] エピソード
カラスコが在籍した2004年、レギュラーシーズンの成績はダイエーが1位通過し、4.5ゲーム差の西武が2位、首位から12.0ゲーム差の日本ハムが3位であった。
この年から導入されたプレーオフで、2位の西武は3位の日本ハムを下し、1位のダイエーに連敗したもののその後3連勝してリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも4勝3敗で中日を下し日本一に輝いた。
この年のプレーオフには、レギュラーシーズン1位のチームと2位のチームのゲーム差が5ゲーム以上だった場合に、1位通過チームにプレーオフで1勝のアドバンテージを与えるという制度が有った。西武はあと0.5ゲーム離されていたらプレーオフでダイエーに1勝のアドバンテージが与えられていて、プレーオフで西武は連敗していたためダイエーに敗退した可能性が非常に高かった。
カラスコは、特に西武戦でサヨナラ負けや9回表に逆転されるなどのリリーフ失敗が目立ったため、「西武が優勝したのはカラスコのおかげ」と言い出す人まで現れた。
カラスコは前代未聞と言っていいほど派手なリリーフ失敗を繰り返したが、その後も梨田監督がカラスコの起用に固執したため、投手交代でカラスコの名が告げられると近鉄ファンがブーイングして対戦相手のファンが拍手をする、といった不思議な光景がたびたび見られた。
[編集] 年度別成績
563試合 35勝46敗18セーブ 防御率3.94
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 完投 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 安打 | 四球 | 三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | 近鉄 | 30 | 53 | 0 | 8 | 8 | 5 | 76 | 74 | 37 | 70 | 5.57 |